「おいリョーマ、ちょっくら夕刊とって来てくれや」
かけられた声をリョーマは故意に無視する。 せっかくくつろいでいる今、自分には何の用事もないのにわざわざオヤジのために勤労奉仕してやる義理はない、と言いたげな空気が背中から漂っている。
「おいリョーマ。 お父様の言葉を無視するとは、いい度胸じゃねーの」 「……うるさいよ。 新聞読みたきゃ、自分でとってくれば」
当然予想されたであろうリョーマの言葉に、ニヤリと南次郎が笑う。 こういう笑みが出てきたときにはろくな事がない。
「ほー。 お父様は、可愛い息子のタメを思っていってやってるんだがなぁ?」
そして、乗ってしまっては負けだと身に染みて知っているはずなのについ反論をしてしまうのがリョーマである。
「……はぁ? バカじゃないの。 なんで新聞取りに行くのが俺のタメになるんだよ」
かかった。
「いい口実を作ってやってるんだろうが」 「口実?」 「巴、アイツも今度のプロテニス杯、出場するんだってな」 「だから、何」
この話題は正直触れて欲しくない話題である。 リョーマにとっては苦々しい事この上ない。
「で、パートナーはお前じゃなくて、氷帝のヤツらしいねぇ」 「……だから、それが新聞と何の関係があるわけ?」
傍目に見ても一目瞭然でイラつきはじめている。 普段、クールぶっているだけに南次郎にはそれが面白くてしょうがない。
「さっきだな、その…跡部とか言ったか? ソイツと二人で今日はウチのコート借りて練習するって言ってたぞ」 「…………」
しばらく逡巡する。 ここで動き出したら親父の思うツボだ。 しかし。
それほど時間が経たないうちに、立ち上がり部屋を出た。
「おーいリョーマ。 夕刊取ってくるの忘れんなよー」 「……クソオヤジ……!」
テニスボールがで高く跳ね上がり、巴の差し出したラケットの上を抜いて背後に飛んでいく。
「何してやがるんだ、巴」 「何してるって言いたいのはこっちですよ! 壁打ち練習ですよ、跡部さん。 なんでスマッシュなんて打ち込むんですか!」
二人は鐘付き堂の石垣で壁打ち練習の最中なのだが、少しでも高目の球が返って来ると、跡部はスマッシュを石垣に打ち込んでしまう。 なので、しょっちゅう巴の番でラリーがとまってしまう。 ある意味もっともな巴の抗議も跡部にはどこ吹く風である。
「アーン? 何言ってやがる。 打ちやすいようにばっかり返していたら特訓にならねぇじゃねぇか」
「うう……それは、一理あるかもしれないですけど……」
恨めしげに跡部を見上げる。 跡部の言いたいこともわからないではない。 どんな悪球でも返せる技能のあるパートナーが跡部のパートナーとして求められている条件なのだろう。 しかし、情け容赦のない跡部にさすがに愚痴も言いたくなるというものである。 ことテニスの事に関する限り跡部に「容赦・手加減・甘さ」などという単語は欠片も存在しない。
「オラ、無駄口叩いてないで次行くぞ。今日中に60球、挑戦するんだろうが」 「はい!」
もっとも、見切りをつけて見捨てられていないだけまだ見込みがあるということなのだろう。 そう、前向きに解釈している。
再び、今度こそは、と気合を入れてボールを石垣に打ち込もうとしたその時、背後から声がかけられた。
「なに人の家でやってんの。こんな時間に」
「あ、リョーマくん! どうしたの、こんな時間にどっか行くの?」
こんな時間に、はこちらが言いたいセリフである。 外も暗くなっているこの時間に、よりにもよって跡部と。
「……別に。新聞取りに来ただけ」 「へえ、新聞ねぇ」
腹の底まで見透かしたと言わんばかりの跡部の口ぶりが非常に勘に触る。
「こんな時間に人の家に入り込んで、メイワクだと思わないわけ?」 「で、でも、おじさんにはちゃんと許可もらったよ?」 「……アイツは何も考えてないだけ」
咄嗟に言い返したものの、やはりこんな時間に練習をしているのは迷惑だったのだろうか。 テニスボールが跳ね返る音は結構響くものだし(もっとも、それに関しては巴が知らないだけでリョーマは南次郎に聞くまで気付きもしなかった程度なのだが)。 大会前のこの時期、公共のテニスコートは争奪戦に近いものになっている。 ここならば一応ライトも完備されているし、いいと思ったのだが。
そんなことを考えて黙り込んだ巴に代わって口を出したのは、跡部だった。
「アーン? なに寝ぼけたこと言ってやがる。 こっちはわざわざこんなところで練習してやってるんだぜ。 感謝してもらってもいいくらいだがな」 「はぁ? なに言ってんのアンタ。 ここで練習してくれなんて頼んだ覚え、ないんだけど。むしろ邪魔」
至極当然の発言、の筈であった。 しかし跡部はそのリョーマの言葉を聞くと我が意を得たり、とばかりに口元だけに笑みを浮かべた。
「そうか。 俺はお前に義理立てしてわざわざお前の目の届く範囲で練習してやっていたんだが、な」 「なっ……!?」
「義理?」
巴だけが何もわかっていない。
「いや、別にお前がいいなら俺もグダグダと文句をつけられてまでこんなところで練習する気はねぇ。 オラ巴、行くぞ」 「え? 行くって……どこに行くんですか跡部さん? ここらへんのコートなんてもう空いてませんよ」 「俺の家まで行く。 うちにもコートくらいはあるからな」
そう言うとさっさとラケットをケースに仕舞い込む。
「……家!?」 「俺の家って……跡部さんの家まで今から行ったら帰りが遅くなっちゃいますよ」 「心配するな。家の車で送っていってやる。 それとも、泊まっていっても俺は構わないぜ?」 「えー、泊まっていったりしたら明日学校に行くのが大変じゃないですか」
そんな微妙にピントのずれた会話をしながら慌てて自分のラケットを持ってついてきた巴の肩にさりげなく手を置くと、跡部は不敵な笑みを浮かべてリョーマの方を振り返った。
「じゃあな、越前。 邪魔したな」 「リョーマ君、おじさんに今日は遅くなるかもって言っておいてねー」
「ちょ、待っ…………にゃろうっ!」
「跡部さん、 そんなにさっさと出て行かなくたってリョーマ君、別に追い出す気まではなかったと思いますけど?」
いつになく早足で先を行く跡部に、巴は若干訝しげに声をかける。 リョーマの言い草に、跡部は気を悪くしたのだろうか。 そんなことを思いながら。
「くだらねぇ言い争いで時間を削られるんならさっさと移動した方がまだ練習時間がとれる。 ……まったく、居候なんてのは面倒だな」 「別に面倒でもないですよ? リョーマ君の家族はよくしてくれてますし」 「てめぇのことじゃねぇよ。こっちのことだ」 「…………?」
「おーいリョーマ、夕刊はどうした?」 「知らない。自分で取りに行けば?」
語気も荒く言い放つとそのまま自分の部屋に引きこもる。 勢いよく閉められたドアの音が響く。 その音に笑いつつ南次郎は新聞を取りに立ち上がる。
「…………若いねぇ、まったく」
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