「さ、始めよっか」
柔軟を終えてラケットを手にしたが、横にいるはずの巴の返事が無い。 そちらをみると、いかにも気もそぞろ、といった感じで屋外コートを照らす街灯の方を見つめている。
「赤月?」 「……」 「赤月!」 「ひゃっ! な、なに、リョーマ君?」
三度目の呼びかけでやっと巴が振り返る。 …面白くない。
「……やる気ない奴に付き合ってやるほど物好きじゃないんだけど」
「あ、ゴメンね、リョーマ君。 やる気が無いわけじゃなくって、むしろやる気満々なんだけど……」 「けど?」 「やっぱまだ虫が多いなぁって……」
「はぁ?」
虫がどうだっていうんだよ?
「虫って苦手なんだよねー」 「お前の住んでた山のほうが虫なんてずっと多いんじゃないの?」
当然湧いた疑問に巴は少し口を尖らせる。
「多いよ。 でも多かろうが少なかろうが苦手なものは苦手なんだもん。 まあ、そんなこと言っててもいなくなる筈がないんだし、練習始め……」
急に巴の表情が変わった。
と、思うまもなく。
「きゃーーっ!」
金切り声と同時に巴が全力でしがみついてきた。 と、言うと体裁がいいが実際には巴はリョーマより一回り大きい。 支えきれず倒れこむ形になった。
「赤月! 急に何のマネだよ! 放せって!」 「虫、虫がついたーっ! 取ってーっ!」
聞いちゃいないし。
まあ、涙混じりの巴の言葉でようやく状況が理解できた。 といってもこちらも冷静な判断が出来ているわけじゃない。
「取るったってお前、大体どこにいるんだよ、ソレ?」
暗くてよく見えない。 っていうか、押し倒されてるこの状況もけっこうキツイんだけど。…いろんな意味で。
「う、腕、腕! …あーっ! 中入った! 気持ち悪いーっ! 早く取ってーっ!」
は? 中って? ……服ん中?
一瞬、頭ん中が真っ白になった。
「バッ…! お前、んなことできる訳……」 「早くーっ!」
だから、人の話聞けって!
いや、でも、今とってやらないとずっとこのまましがみつかれているワケで。 だったらいっそのこと。
ああもう、完全にこっちも動揺してる。
と、急に赤月の動きが止まった。 今まで痛いくらいにしがみついていた手を放して、身体を起こす。
「あ…、どっかいったみたい」
われに返るとさすがにさっきまでの大騒ぎが気恥ずかしいのか頬を掻きながらこちらを見る。
「あはは…ゴメンね、リョーマくん? もう大丈夫みたい」
巴の言葉に、こちらも身を起こす。 もうケロっとしてる。 …なんだか動揺した自分がバカみたいだ。 そう思うと無性に腹が立つ。
「お前さぁ、もう少し人に迷惑かけずに人生送れないの?」 「〜〜っ! だから、謝ってるじゃない!」
むくれる巴に近づくと、無言で袖口にまだ居座っていた甲虫を指で軽く弾く。 慌てたように虫は飛んでいった。
「あ……ありがとう」 「ホラ、練習始めるよ。 今度こそ」
に、しても。 練習始める前に随分疲れさせられたけど。
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