始まりの話。




 コートの上でボールをつく。


 退部届けを提出して以来、目を向ける事すら避けていた場所で、もう握ることもないのだと思っていたテニスボールを手にする。


 ボールを高くあげ、サーブを放つ。
 様子見に、スピードよりもコントロールを重視したその球を即座に南次郎が返球してくる。
 鋭いライジングショット。
 こちらも叩きつけるようにそれを返す。



 手に握るラケットは自分のものではなく南次郎のものだ。
 ガットのストリングスの強さも、グリップの具合も違うそれは、さすがにずっと自分が使い続けてきたラケットのように手足の一部同然、とは言えない。

 しかし、この程度はハンデにもならない。
 技術でカバーできる。


 クセのある南次郎のショットを受け流すように返す。
 基本に逆らったトリッキーな南次郎のプレイ。コイツの球を追うことは難しい。



 だけど、俺は返せる。



 自惚れじゃない。
 今までの対戦成績はほとんど五分。
 全国の強豪なんて戦った事がないから知らないけれど、都内でコイツと互角の勝負が出来るのは多分俺だけだ。








 来た、絶好球だ!
 今、南次郎殺しを決めれば、絶対に決まる……!








 しかし、南次郎も、観戦していたスミレも予想したその決め球は、結局放たれなかった。








「京四郎!」


 インパクト音をかき消すようにコートに響いたのは、ラケットが京四郎の手から滑り落ちた音。
 そして、悲鳴のような南次郎の声。



「あー、危うく自分が退部届け出した理由を忘れるトコロだったな」


 対して、のんきそうな口調でそんな事を言う京四郎。
 膝をつき、右腕を押さえて青い顔をしているくせに、飄々とまるで他人事のように。


「なんか、思った以上に腕が保ったんで勘違いしそうになっちまった。
 けど、アレが打てねえんなら、お前との勝負は出来ねえよ。……諦めがついた」




『南次郎殺し』。

 腕が壊れる前から、負担の大きさに一試合で何球も打つ事が出来なかった。
 今それが放てるワケがない。



 それでも、打ちたかった。
 打てると思いたかった。

 打てない自分を認識するのが怖くて、ラケットを握れなかった。
 だから、無理にでも現実を目の当たりにさせてくれた南次郎に、少しだけ、感謝した。
 いくら目を背けても、変え様のない事実をやっと受け入れる事が出来たことに。


 見えないから怖い。わからないから苛立つ。
 完膚なきまでに叩きのめされた事実は、却って京四郎の気を楽にしてくれた。





「なんだよ……結局勝ち逃げかよテメエ」


 力なく南次郎が言う。
 苦笑すると京四郎はゆっくりと立ち上がり、南次郎にラケットを返す。

「勝負は五分だろ? 諦めろ。
 医者のハゲの言う事には、今んとこ手の施しようがないんだとさ」


 だから、と言葉を継ぐ。



「なんとかする為に、医者でも目指すかねぇ」
「は?」


 予想外の言葉に思わず南次郎が聞き返す。
 目が合うと、ニヤリと京四郎が笑う。


「ま、アッサリ諦められるほど俺も人間出来てないってコトだな。
 幸い、お前と違って俺、頭いいしなぁ。
 ってなわけで、勝負はそれまでお預けってことで。
 それまでお前は世界でも目指しとけ。俺が復帰するまでの場繋ぎだ」




 左手でコートの端に転がっていたボールを拾い上げると、それを南次郎に投げる。





「次、試合再開する時はやっぱりこのコートだ。例えそれが何年後でも。
 ……いいですよね、先生?」
「ぅわ、ババァ! いつから覗いていやがった!?」




 いきなり話の矛先を向けられたスミレは、苦笑いしながら頷く事で肯定の意を示した。
 そんな約束だったらいくらでもしてやる。
 おとぎ話のように非現実的で、どんなにか細い、微かな期待だとしても、それでこの二人が前に進む事が出来るのならば。








 それが、この三人がコートでかつて交わした、小さな、しかしとても大切な約束だった。






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「なんだよ、お前の腕を俺にくれるとでも言うのか?」
「……やだよ。
 それじゃ、どっちにしてもお前とテニスできねぇじゃねぇか……」

と、言うセリフをどっかにねじ込みたかったなぁ。

あまりの青臭さに書いていて恥かしくてしょうがないです。
しかし話をするんじゃなかったのか二人とも。
ちょっと展開が強引だなぁと自分でも思わないでもないですが、まあ、中学生ですし!(笑)

2006.3.28.


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