「忍足さ〜ん」
どこからか聞こえてきた声に、歩みを止めて忍足は振り返った。
しかし、誰の姿もそこには認められない。 …確か、巴の声だったような気がしたのだけれど。
再び歩を進めようとすると、また声がした。
「こっちですよ、忍足さん」
……声のしたのは、上?
上を向く。
傍にあった大きな木の上。 太い枝の上にまたがって巴がいた。
「ああ、よかった、気が付いてもらえて。 このまま誰も通らなかったらどうしようかと思いました〜」 「おはようさん、巴ちゃん。 朝っぱらからなにやってんのや?」
もっともな質問に巴が少し困ったような顔をする。
「う……それは、ですねえ。ネコが…」 「ネコ?」
「ネコがいたんですよ。 で、どうも樹から下りられなくなってるみたいだったから」 「助けよう思て登ったけど、自分も下りられへんようになった?」 「……ハイ」 「で、そのネコは?」 「それが、あっさりどこかにいっちゃいました」 「アホか」 「ううう…返す言葉もないです…」
「しゃあないな、ちょい待っとりや」
そう言うと、忍足はそのまま樹を上り始める。 てっきり梯子か何かを探しに行ってくれるものだと思っていた巴は面食らった。
「え、え、なんで忍足さんまで上ってくるんですか?」 「ん? そら巴ちゃんと二人きりになれるチャンスやし」 「はぁ?」
見る見るうちに巴のいる枝の場所までたどり着くと、しれっとした顔でのたまう。
「はうぅ…やっと助けを見つけたと思ったのに…」 「心配せんでもちゃんと俺がおぶって下ろしたるって」
アッサリと言った忍足だったが、巴は疑わしげにどちらかと言うと細身の忍足を見る。 そして、断言した。
「ムリですよ。 樺地さんならともかく…」 「おいおい失礼なやっちゃな。 しかもなんで樺地やねん」 「いや、頼りないとか言う意味じゃなくて、私大きいし、重いですし!」
むっとした表情になった忍足に慌てて弁解する。 つい樺地の名前が出たのは前歴があったからだがあえてそれは伏せておいた。 …山育ちの巴が東京に来てから一年間の間に二度も木登りがらみのトラブルにあったというのはなんとなく情けないので。
「デカイゆうたかて俺よりはずっとちいさいやん。 女の子一人くらい背負って降りるのなんか屁でもないわ。」 「そうですかぁ…? で、降りないんですか?」
言うだけ言って、忍足は樹の上にすっかり落ち着いている。 動く気はまるでなさそうだ。
「ん、さっきも言うたやろ? 折角の二人きりになれるチャンスや、って。 それとも二人っきりになるのは他の奴のほうがええ?」 「え? えっ?! そんなの、考えた事もないです!」 「そうなん?」 「そうですよ」 「好きな奴とか、おらんの?」
忍足の言葉に、巴が少し眉を寄せる。
「んー、最近良く言われるんですよね、それ。 やっぱ初恋もまだなのっておかしいのかなぁ…。 でも私、誰かの彼女とかよりも相棒になりたいです。その方がカッコいいと思うんですけど」 「ふーん、で、それは誰の?」 「……いや、それもまだ全然わかんないんですけど」
と、巴が困ったように笑う。 とぼけた巴の言葉に忍足も苦笑する。
「ほんま自分変わっとるわ」 「えー、そうですかぁ?」
やっぱり、他の奴にやるんは惜しいな。
「忍足さん、どうかしました?」 「いや、別に。 さあ、誰かに見つかったらやかましからそろそろ下りよっか、巴ちゃん」
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