ひとつ、溜息をつく。 これで今日何度目の溜息なのか。 気晴らしに街に出てみたが、いっこうに気は晴れない。 かといって、劇場に戻る気にもなれない。 劇場にいると、他の皆に気を使わせてしまうことが分かっているからだ。 正直言って今は余り自分に関わって欲しくはなかった。誰にも。 こんな時、N.Y.に居たときは一人三番街の酒場に赴いていた。 カウンターの隅の席で一人、ウォッカの入ったグラスをひたすらに干していた。 帝都に来てから、自分から酒を飲んだことはない。つきあい程度である。 それは酒に依存しなくてもすむようになったからだ。 酒を断とうと努力した覚えもない。 そんなとりとめも無い事を思い出しながら何の気無しに街を歩いていたマリアの目に、一人の人物が映った。大神だ。 彼もまた何か目的があって街に出てきたという様子ではない。 店のものに声をかけられて、愛想良く返事をしている。 本当に、軍人とは思えぬほどに気さくな人である。 何事か言葉を交わした後威勢良く背中を叩かれ、少し憮然とした表情になるのを見て、マリアは苦笑した。 声をかけようと、少し、右手をあげかける。 「大神さんっ、お買い物ですか?」 一瞬早く掛けられた声。 遠目にも映える赤いリボン。桃色の着物。……さくらだ。 彼女もまた、偶然大神に出会ったことに、顔をほころばせている。 「ああ、さくらくん。偶然だね。 別にこれといって目的があるわけじゃないんだけど、せっかくの休日だからね。 さくらくんは、お買い物かい?」 「はい。……よかったら、大神さん、つきあっていただけません?」 「ああ、いいよ。荷物持ち程度にしか役に立たないけどね」 二人のそんな会話が、耳に入る。 マリアは踵を返し、二人とは逆方向に歩いていった。 一瞬弾みかけた心が、再び重く沈むのを感じる。 今日の私はおかしい。 その、自覚はある。 だけど、それが“予感”だとは、まだ気が付かなかった。 『失礼、蒸気タクシーの乗り場はどちらになるのでしょうか』 英語で、不意に声をかけられた。 よくあることだ。 異国の人間を見るとまだ萎縮してしまう帝都の人間には訊きにくいのだろう、マリアはよくこうして外国人にモノを尋ねられる。 帝都に来るまでは、あり得なかったことだ。 それは、自分の容姿だけの問題ではないだろうことに、マリアは気が付いている。 帝劇に来るまでの自分は他人を寄せつめぬように防御壁を張っていた。 それを押しのけてまで自分に関わろうとするような物好きは、数えるほどだった。 『乗り場ならこちらを……』 そういいながら振り返り、マリアは後に続く言葉を失った。 そこにいたのは。 目の前に立っているのは。 「ボードヴィル……!」 驚愕の表情を浮かべるマリアに、彼は静かな微笑みを浮かべた。 『ご名答。よく覚えていましたね』 『いや、違う! ……貴方は、誰?』 ボードヴィルではない。 彼のはずがない。 彼は死んだのだから。 マリアの目の前で、マシンガンの弾に体中を打ち抜かれて。 自分に、少しばかりの思い出と肩と太股に残る銃創だけを残して。 目の前にいる男は、ボードヴィルに生き写しであった。顔かたちは。 ただまるでその身にまとう雰囲気が違う。 N.Y.の場末、ならず者や半端者の集まるあの場所で、日だまりのような明るさを持っていたボードヴィルとは対照的にこの男には吹雪の夜のような冷たさを感じる。 顔に浮かべる笑顔が、また、まるで別物であった。 ただ、形ばかりの、笑顔。 『捜しましたよ。 まさかこんな辺境の地で、しかも劇場などに潜伏しているとは』 彼はマリアの質問には答えなかった。 マリアはもう一度同じ質問を繰り返す。 『貴方は、誰? 何故私を?』 男が、嗤う。 マリアは顔を背けた。 見たくない。ボードヴィルの顔で、そんな表情は。 『目的は一つ。 僕は君を迎えに来たんだよ、漆黒のクィーン』 その言葉にマリアは男を睨み付けた。 『やめてちょうだい。戯れ言を聞く気はないわ。 そして、私はどこにも行かない』 しかし男は全くひるむことなくその瞳を捉えた。 『戯れ言なんかじゃないさ。僕は断言しよう。 君は僕と共に行くことになる。その身に相応しい世界へ』 それだけを言うと男はその場を去っていった。 足音が聞こえなくなり、その気配が完全に去るまで、マリアはその場を動くことができなかった。 |