「……ふう」
素振りを終えて一息つく。
合宿中の練習が足りないというわけでもないが 夕食後の素振りは日頃の習慣なので欠かしてしまうとどうも気持ちが落ち着かない。
傍らのベンチに腰をかけ、橘は何気なく空を見た。
月を薄く雲が覆ってはいるが明日の天気には影響なさそうだ。 雨が嫌いというわけでもないが折角の合宿なのだから室内に押し込められるのは出来れば遠慮したい。 幸いにも合宿期間中雨が降ったのは3日の夜のみで日中に雨に降られることはなかった。
風が頬をなぜる。
3月の風はまだまだ冷たい。 汗で濡れた体を冷やしてしまっては元も子もない。
今日はここまでにしよう。
上着を羽織ると橘は宿舎に戻る事にした。
そのまま部屋に戻るつもりだったが、食堂に灯りが残っているのを見て考えが変わった。 まだ、誰かいるのだろうか。 誰もいないのだったら灯りを消しておこう。 喉も渇いたし、自販機でスポーツドリンクでも買うついでだと思えばいい。
そう決めて食堂の方に足を向ける。 誰もいなさそうだ。
と、思ったときに奥から声がした。
「あれ、橘さん。 こんばんはー」
巴が調理室の方から顔を覗かせている。 ユニフォームの上にエプロンをまとった姿で。
「巴、なにをやっているんだ? こんな時間に。 ……夕食が足りなかったのか?」 「なんでそうなるんですか! そんなことないですよ。お料理の勉強をしていたんです!」
確かにここの合宿所では材料費を負担すれば誰でも調理室を自由に使っていいことにはなっている。 しかし、なにも合宿に来てまでそんなことをしなくてもいいだろうとは思うのだが、巴に言わせると明日の朝食の下準備もかねているのでいいのだという。 そういえば、調理担当の人が体調を崩したとかで明日の朝食だけは女子選手が担当するとか言っていたような気がする。
「橘さんは、自主トレの帰りですか?」
橘が問いに答えようとしたその時、突然部屋の明かりが消えた。
「えっ?」
突然の暗闇に巴が驚いたような声を出す。 驚いたのは橘も同様だ。 目の前にいる巴の姿もよく見えない。
「も、もう消灯時間でしたっけ?」 「いや、早すぎる」
誰かが部屋に誰もいないと思って電気を消したのだろうか。 まさか杏じゃないだろうな。
一瞬そう思ってしまった橘だったがすぐにその可能性を打ち消した。
「停電だな、これは…」 「え、停電!?」 「ほら、自販機の明かりも消えている。多分廊下に出ても真っ暗だろう」
「そうなんですか? …痛っ!」 「おい、動き回るな、危ないぞ!」
咄嗟に巴の手を掴む。
「大人しく座っていろ。 もうじきに復旧するだろう」 「はーい……」
そうして二人並んで床に座り込んだ。 廊下かどこかで誰かが騒いでいる声が遠くでする。
「まったく……目を離すとなにをしでかすかわからないな。 暗闇の中で動き回って怪我でもしたらどうするんだ」 「そんな、いくらなんでも怪我しない程度に注意くらいしますよ」 「いや、お前の事だ。 何かに気をとられたら考える前に体が動いているに決まっている」
そう言い放つと我知らず溜息が漏れた。 それが耳に入ったのだろうか、控えめに巴がこんなことを言った。
「……ひょっとして橘さん、 まだ昨日のこと、怒ってたりします……?」
「え?」
いや、そんなことは。 そう答えようとした橘だったが、一つ思い至る事があった。
「……そうかもしれないな。 もっとも、正確には今日の話だが」
そうだ。
先程自分でも妙な位にイラだった発言をしたのも、そのせいか。 巴の表情が見えないせいだろう、今の自分はすこし余計な事を喋りすぎている。 そうは思っているのだが、どうも自制が効かない。
「ええっ!? 今日、ですか?」
「……まさか昨日の今日でもういきなり勝手に練習を抜け出して特訓をしようなんてするとは思わなかったぞ」 「いや、だってあれはそんな無茶をするつもりもなかったですし、橘さんに練習をサボらせるわけにはいかないなー、って……」 「ああ、わかってる」
わかってはいるのだ。 ただ。
「もう少し頼って欲しいと、勝手に思っているだけだ。 まあ、子供のグチのようなものだから、あまり深く考えないでくれ。 ……ダメだな、 顔が見えないと思うと余計なことまでつい口にしてしまう」
巴が自分を頼ってくれなかったので拗ねているだけだ。 それが自分でもわかっているだけになおさら苛立つ。
傍らでくす、と笑う声がした。
「橘さんでも、子供みたいだとか思うことあるんですね」
「おかしいか?」
少し憮然とした声で橘が言う。 即座に、慌てた声で巴が弁解をする。
「ち、違いますよ! ヘンな意味で言ったんでなくてですね。 ただ、橘さんは私よりもずっと、ずーっとオトナみたいな、そんな気がしてましたから……」
巴にそんな風に思われているとは知らなかった。
そんなに、自分は大人ぶっているのだろうか。 自問してみると、そうかもしれない、と思う。 何せこの一年、ただ1人の上級生として不動峰を率いてきたのだ。 無意識にせよ大人としての自制を自分に強いているのかもしれない。
しかし、自分はそれほど大人ではない。 それは橘自身がよく知っている。 誰よりもよくわかっていることである。
「巴」
「はい、なんですか?」
「俺は、そんなに大人でもないぞ」
独占欲も強い。 自信も余裕もないから表面だけ取り繕っているだけの子供。
巴は、自分がこんなコドモだとわかったら幻滅するだろうか。 そんなことを思いながら、まとまらない頭を通過せずに言葉が口から紡ぎだされそうになる。
その時、急に灯りが復旧した。
思いの外、近いところに巴の顔があって、しかも目が合っていたりしたものだから橘は慌てて顔をそらす。
「あ、……スマン」 「え、いえ!」
慌てて手を離す。 そういえば手も掴んだ時のままつなぎっぱなしだった。
なんと無しに時計に目をやる。 随分長い時間だったように感じていたが停電していた時間はほんの少しの間だったようだ。
あと少し停電が長かったら何を口走っていたかわからない。 危ないところだった。
「あー、そうだ、巴。 後片付けがすんだら部屋まで送っていこう」 「え? そんな、いいですよ。 待たせちゃ悪いですし」
巴が慌てたように顔の前で手を振る。 もうすっかりいつものふたりである。
「……正直なところを言わせてもらえば、 お前を放っておいて離れたところで心配させられるのなら傍にいて見ているほうが俺としては安心なんだが」 「う……それってあんまりです……」
少し頬を膨らませながらも急いで厨房の片付けに巴が背を向ける。
「ゆっくりでいいからな。 また焦って怪我なんてするなよ?」 「わかってますってば!」
そう、あせらなくてもいいのだ。
何事も。
巴Ver.へ
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