「……ふう」
一息ついて巴は少し伸びをする。
突然明日の朝食作りを女子選手に任されてしまったけど、この程度まで下ごしらえをしていれば明日は楽かな。 ついでに料理の特訓にもなったし。 ここの合宿所の、材料費さえ負担すれば自由に厨房を使ってもいいっていうシステムはなかなかいいんじゃないかと思う。
いい気分転換として巴は何度も利用している。
と、なにやら人の気配を感じたのでなにげなく厨房から食堂の方を覗き込んでみる。
「あれ、橘さん。 こんばんはー」
そこにいたのは、橘であった。
食堂には自答販売機があるのでジュースでも買いに来たんだろう。 一方、橘は誰かがいるとは思っていなかったのか、少し驚いた表情を見せる。
「巴、なにをやっているんだ? こんな時間に。 ……夕食が足りなかったのか?」
「なんでそうなるんですか! そんなことないですよ。お料理の勉強をしていたんです!」
ついでに明日の朝食当番の準備も兼ねていることを簡単に説明する。 それにしてもつまみぐい扱いとは随分だ。
……でも、日頃の行動を思い返せばある意味仕方のない反応なのかもしれない。
「橘さんは、自主トレの帰りですか?」
橘が小脇にラケットを抱えているのを見ての何気ない質問だったが、橘がそれに答える前に、急に巴の目の前が真っ暗になった。
「えっ?」
何が起きたのか咄嗟に理解できない。 一瞬後、ようやく灯りが消えたのだとわかる。
「も、もう消灯時間でしたっけ?」
料理に熱中している間にそんなにも時間が経ってしまったんだろうか。 そう思ったのだが、その意見は即座に橘によって却下された。
「いや、早すぎる」
巴はただ動転するだけだったが流石に橘は冷静に状況を判断出来ていたらしくすぐにその原因を口にする事が出来た。
「停電だな、これは…」 「え、停電!?」 「ほら、自販機の明かりも消えている。多分廊下に出ても真っ暗だろう」
「そうなんですか?」
言われてみれば、部屋の電灯を消してもその存在を主張している自動販売機の灯りすら、今は目に入らない。 外もそうなんだろうか。
そう思って廊下の方へ方向転換しようとしたところ、暗闇の中で気がつかなかったテーブルだか椅子だかにしたたかに体をぶつけてしまう。
「…痛っ!」 「おい、動き回るな、危ないぞ!」
気配からおおよその場所を察したのか、 橘の手が巴の手を掴んで元の場所へと引き寄せる。
闇の中で姿が見えないだけに橘が動いたのも予測できなかったので突然触れたその手に、一瞬、ドキリとした。
「大人しく座っていろ。 もうじきに復旧するだろう」 「はーい……」
橘の声に従って、一緒に床に腰を下ろす。
……橘さん、手、握りっぱなしなんだけど、気づいてないのかな……。
なまじっか視界が利かないだけに 手のひらの温度や感触がよく感じられて、意識がそこから離れていかない。
「まったく……目を離すとなにをしでかすかわからないな。 暗闇の中で動き回って怪我でもしたらどうするんだ」 「そんな、いくらなんでも怪我しない程度に注意くらいしますよ」 「いや、お前の事だ。 何かに気をとられたら考える前に体が動いているに決まっている」
そういわれてしまうと返す言葉もない。 常々皆から言われていても、どうしてもとっさには冷静な判断が出来なくなるらしい。
そんなことを考えていると、微かな溜息が聞こえた。 きっと、いつもだったら気がつかないくらいの微かな。 視界が悪いとそんなことにまで敏感になってしまう。
「……ひょっとして橘さん、 まだ昨日のこと、怒ってたりします……?」
いや、正確には昨日は怒っているのではなく呆れているのだといわれたのだけれど。 顔が見えないで、溜息だけが聞こえると不安になる。
「え?」
巴の言葉に、驚いたような橘の反応があった。 そして暫くの沈黙のあと、こんな返答が返って来る。
「……そうかもしれないな。 もっとも、正確には今日の話だが」
「ええっ!? 今日、ですか?」
今日? 昨日は確かにバカなことをしたなぁ、という自覚はあったけれど今日となると何をしたのだろう。 知らないうちにまた橘を怒らせるようなことをしたのだろうか。
「……まさか昨日の今日でもういきなり勝手に練習を抜け出して特訓をしようなんてするとは思わなかったぞ」
続いたこの言葉も意外だった。 自分なりに考えて、そして出した結論だったのだけれど。
「いや、だってあれはそんな無茶をするつもりもなかったですし、橘さんに練習をサボらせるわけにはいかないなー、って……」
自分では無茶をするつもりは無かったのだけど、傍から見れば同じことだったのかもしれない。
今ごろ、そんなことに気が付いた。
けれど、橘の思いはそんな巴の考えとも少し違った。
「ああ、わかってる。 もう少し頼って欲しいと、勝手に思っているだけだ。 まあ、子供のグチのようなものだから、あまり深く考えないでくれ。 ……ダメだな、 顔が見えないと思うと余計なことまでつい口にしてしまう」
驚いた。 いつも、橘さんには迷惑ばっかりかけているから、少しは自立しなくちゃと思っているくらいなのに。
全く真逆のことを思われているのだというこのすれ違いの事実が面白くて、つい笑みがこぼれた。 しかも、この橘が子供のグチ、などということを言うとは思わなかった。
「橘さんでも、子供みたいだとか思うことあるんですね」
「おかしいか?」
少し憮然とした声で橘が言う。 また怒らせてしまったのだろうか。 慌てて弁解する。 顔が見えないとふとした橘の言葉の起伏も不必要なまでに気になってしまう。
「ち、違いますよ! ヘンな意味で言ったんでなくてですね。 ただ、橘さんは私よりもずっと、ずーっとオトナみたいな、そんな気がしてましたから……」
そう。 年齢で言えばたったの2年しか変わらないはずなのに、巴にはこの2年がいつも果てしない距離のように感じるのだ。
いつも遥か前方で軽くこちらを振り返ってくれているけれど、 走っても走ってもその場所にはたどり着けないどころか、どんどんと差が広がっているような。 2年たっても、きっと巴は今の橘のようにはなれない。
だから、拗ねたような橘の口ぶりに距離が少し縮んだような気がして嬉しかったのだ。
「巴」
「はい、なんですか?」
「俺は、そんなに大人でもないぞ」
同じ言葉を、今とは違う状況で聞いても、きっと巴には納得できなかっただろう。 だけど、今はなんとなくそうなのかもしれない、そう思えた。 橘はやっぱりずっと先にいるオトナだけど、自分たちとそう変わらない位置にいるコドモでもあるのだと。
その時、急に灯りが復旧した。
無自覚に目が合っていた。なんだか今の今まで見つめあっていたようで気恥ずかしい。
「あ、……スマン」
「え、いえ!」
目を逸らすと同時に、手をつないだままだったことにようやく橘が気づき、慌てて手を離す。 たった今まで触れていた手の感触が消えたことに、なんとなく寂しい、なんて思ってしまう。
「あー、そうだ、巴。 後片付けがすんだら部屋まで送っていこう」 「え? そんな、いいですよ。 待たせちゃ悪いですし」
慌てて顔の前で手を振る。 もうすっかりいつものふたりである。
目の前にいる橘はいつもの橘で、やっぱり自分より遥かにオトナに見える。 さっきのほんの少しの停電の間だけに垣間見せた姿はもうすっかり影を潜めてしまった。
「……正直なところを言わせてもらえば、 お前を放っておいて離れたところで心配させられるのなら傍にいて見ているほうが俺としては安心なんだが」 「う……それってあんまりです……」
だけど、まあ、きっと本音なんだろうな。
さっきの会話を思い起こすと意固地に断るより甘えてしまった方がいいんだろう、と後片付けに厨房に戻る。 と、その背後に橘から声がかけられた。
「ゆっくりでいいからな。 また焦って怪我なんてするなよ?」 「わかってますってば!」
そう、ゆっくり前に進んでいけばいい。
オトナだろうとコドモだろうと、やっぱりずっと前にいるけれど、きっと待っていてくれる。
橘Ver.
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