そんなある日の。






 それは、Jr.選抜も終わった春休みのある日。



「日吉さんっ! こんにちは!」

 かけられた声に日吉が振り向くと、そこにいたのは巴だった。
 こちらに駆け寄って来る。……制服姿だ。



「赤月」
「いやあ、よかったです、日吉さんに会えて!」


 嬉しそうに笑う。



「なんでこんな所にお前がいるんだ?」



 こんなところ、とは氷帝学園の敷地内である。
 当然氷帝生以外の学生の姿など見当たらない。


 日吉の言葉に、巴は手に持った茶封筒を指し示す。


「竜崎先生のおつかいです。榊監督は、どこですか?」



 成程。



「榊監督ならこっちだ。ついてこい」

 手で軽く指し示すと、先に立って歩き出す。
 すぐにあとに巴が続く。


「はい!
 あーよかった、着いてすぐに日吉さんに会えて。
 知らない学校で一人って不安で……」
「……お前、榊監督の所に連れて行ってくれるヤツなら俺じゃなくても誰でもよかったってことか?」
「はい、そうですけど?」


 屈託なく答える。





 巴の言葉に一瞬でも期待した自分が馬鹿だった。





「ほら、着いたぞ」


 音楽練習室の一室の前で足を止める。

「あっ、はい、ありがとうございました!
 榊監督、青学の赤月です。入りまーす!」



 前半の言葉は日吉に、そして後半の言葉は室内にいる榊に向けられたものである。



 扉を開けて室内に入っていく巴の背を見ながら

「くそ、見てろよ。今に下克上だ……」



 そう、日吉は忌々しそうに呟いた。







「赤月か」
「はい! 榊監督、お久しぶりです!」



 レコードかと思うほどに流暢に流れていたピアノの音が止まり、榊が椅子から立ち上がる。



「ついに決断してくれたのか。  事前に連絡してくれていれば、書類を準備していたのだが……少し、待っていてくれ」



 立ち去ろうとする榊を慌てて制止する。


「ち、ちょっと、榊監督!
 ナニか勘違いしてませんか。氷帝に転入しに来たんじゃないですよ?」
「む、そうなのか」


 意外そうな表情を見せる榊。


「そうですよ。竜崎先生のおつかいです。この書類を」


 そう言って封筒を榊に渡す。
 しかしまだ巴の氷帝への転校を諦めていなかったのか、この人は。

「ああ、それか。
 竜崎先生から連絡は受けている。
 ……どうだ、せっかく来たのだから、時間があるのなら少し練習を見て帰らないか?」
「え、いいんですか? 是非!」







 一方、扉の外側。

「あれ? 日吉、何やってるのこんな所で」
「別に。榊監督なら来客中だぞ」


 廊下に何をするでもなく立っている日吉の姿を認めて、鳳が声をかける。
 声をかけられた日吉の答は箸にも棒にも、という按配である。


「あ、そうなんだ」
「……なんで、立ち去らない」
「いや、日吉は結局何をやっているのかなって」


 クソ、カンがいいのか、ただのボケなのか。
 どうやって鳳を遠ざけようか、と考えた日吉だったが、時間切れで練習室の扉が開き、巴が出てきてしまった。


「失礼しまーす。……あれ、鳳さん。こんにちはー」
「え? あ、と、巴さん!?」


 顔を出した予想外の人物に、鳳が動転しているのが手に取るように判る。
 そしてそんな鳳の様子を見て、日吉が苦虫を噛み潰したような表情になる。
 こちらも随分判りやすい。


「どうしてここに?」
「竜崎先生のおつかいです」

 本日何度目かの同じセリフを繰り返す。
 そして、続けて嬉しそうに言う。


「で、榊監督がよかったら練習を見ていけばいいって言ってくれたんで今からちょっとお邪魔させていただきます!」



「「練習に……?」」


 思わず同時に言って、そして顔を見合わせる。
 日吉も鳳も、このとき思ったことは同じ。



 『なんでよりにもよって今日……他の日ならいつでも歓迎するのに……』





 これであった。






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榊の出番は前半だけです。

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