「消えた、か……」 女の姿は追いつけることも適わぬままに一軒の屋敷の前で忽然と消えた。 そもそも、緋勇の足で女の歩みに追いつけなかったという時点で不審である。 半ば駆け足であった龍斗に対し、女は傍から見ている限りには普通に歩いているように見えたのだから。 「どうする、龍斗。 この屋敷を調べてみるか?」 少し遅れてたどり着いた雄慶が尋ねる。 「また、こそ泥のような真似か?」 「調査、だ」 そんなことを言っていると、向かいの多葉粉屋の主人が顔を顰めた。 緋勇たちを不審に思っているのかと思いきや、若干違っていたようだ。 「お前さん達、あの屋敷に行くつもりかい? 悪いことは言わない。やめておきな。 ろくでもないことに巻き込まれるかもしれないよ」 「ろくでもないこと……何かあるのか? この屋敷には」 予想外の質問だったのだろう。 多葉粉屋は呆れたような顔をした。 「お坊さん、知らないで行こうとしていたのかい。 ここはね、女衒の家だよ。 どんな汚い手を使っているのか知らないけれど若い娘を連れてきては吉原に連れて行く… この間も娘の親らしい男が来ていたけれど屋敷の者たちに殴る蹴るの酷い目に遭わされて追い出されていたよ」 「女衒……!」 「ねえ、女衒ってなに?」 小鈴が呑気な質問をする。 「入ってみるか」 「…そうだな」 「ちょっとー、人が聞いてるのに無視しないでよ! 女衒ってなんなのさ」 「小鈴……あまり大声で連呼しないほうが…」 女衒とは遊女の仲介を生業とする者である。 その仕事内容から察せられるように、当然堅気の人間の仕事ではない。 屋敷の中に入る。 人の気配はない。 屋敷に一歩入った途端に龍斗は顔を顰めた。 一面に充満しているこの気配。そして血の匂い。 「龍斗、これは……」 流石に察した雄慶が物憂い顔で龍斗を振り返る。 無言で龍斗が部屋の一つの戸を開く。 部屋の中心に、男が一人座っていた。 「あ、あの…お邪魔します」 気の抜けた発言を小鈴がする。 男は立ち上がりこちらに近づいてくる。 「ボクたち怪しいものじゃ…、あの…?」 何を言っても返事がないのに流石に小鈴も不審を感じる。 傍らで藍が小さく悲鳴をあげた。 「この人……もう、亡くなっている……!」 無言のまま男はなおも近づいてくる。 この至近距離になってようやっと小鈴にも分かった。 目が濁っているし、皮膚の色も常人のそれではない。 かといって病人のものとも違う事は一目瞭然であった。 死人である男が、ゆっくりと手を伸ばしてくる。 その刹那、男の身体は真横に飛ばされた。 龍斗が気を込めた拳を放ったのだ。 床に倒れた男は立ち上がろうと軽く身体を動かしたが、やがてまた崩れ落ち、動かなくなった。 そこにあるのは最早ただの遺骸である。 と、その遺骸の向こうに白い影が見えた。 やがて影は先程追いかけていた女の姿を映し出す。 目を伏せた女の姿は、やがて、ゆっくりと消えた。 疑惑が、確信へと変わる。 「一度、龍泉寺へ戻ろう」 予想が正しければ、吉原へ行った京梧は京梧でまた何かに巻き込まれているのだろう。 程なくして龍泉寺に戻った京梧は妙に浮かない顔をしていた。 吉原の女に会ってきた顔ではない。 「吉原で、女郎の幽霊にでも会って来たような顔だな」 そう言うと、即座に京梧の顔色が変わった。 「……どういうことだ。 どうして、龍斗が知ってるんだ」 「いきりたつな、山猿。 こちらでも似たようなことに出会ったからそうではないかと、そう思っただけだ」 「何……」 「女衒が殺された。 そこに遊女の霊がいた。とまあ、そういうことだ」 京梧が愕然とした表情になる。 吉原でも怨霊が襲ってきたらしい。 しかも場所は萩原屋……お葉のいた店。 「これはやはり吉原に出直す必要があるな」 「待って。 吉原には私たち女や雄慶さんは入れないわ」 藍の言葉に、龍斗が顔を顰める。 「来なければいい」 「そうはいかん。 お前と蓬莱寺の二人では信用がならん」 「じゃあ、あたしが手形を手に入れてやるよ」 時諏佐がわけもなく言う。 吉原に僧侶や女性を入れることのできる手形はおいそれと手に入れられるものではない。 さすがは公儀隠密、といったところか。 結局、手形を手にして吉原へ入ったときには既に暮れ六つを越えていた。 張見世がはじまった刻限で、吉原の中は人があふれ返っている。 荻原屋へと足を向けたときに、運悪く見知った顔にぶつかった。 「変わったところで出会うな、お前たち」 同心だ。 確か…名は御厨と言ったか。 江戸に入った夜に出会ったが興味もなかったのであまり印象にはない。 当然のように手形を要求される。 当たり前だ。 吉原に女僧侶連れで現れる一行が怪しくないはずがない。 一応吉原で無くなった遊女の弔いだと言い張ったがどこまで信用しているかは怪しいものである。 何せ、手形を持っているとは言えそれをもっている時点で普通ではない。 「それより、本日は御役目ですか」 「ああ、そこで遊女の殺しがあってな」 何気なくいう御厨の言葉に京梧がいきり立った。 「何っ! そ、その遊女の名前はなんて言うんだ!」 「確か、お蜜とか言ったか……なんだ、心当たりでもあるのか、お前たち」 「いや、お葉ちゃんじゃなきゃいいんだ」 そう言った京梧に、御厨の顔が曇った。 「お葉、というのは……荻原屋のお葉か?」 「そうそう、あんた知ってるのか」 「ああ、数日前に見たが…気立てのよさそうな娘だったな」 そうだろうそうだろう、と満足げな顔をした京梧だったが続けて発された御厨の言葉に顔を強張らせた。 「もっとも、今はこの世にはいないが……」 「何っ!?」 「数日前、荻原屋のお葉という名の部屋付き新造が死んでいるのが見つかった。 なんでもここ数年は胸を患ってまともに客も取れないありさまだったらしいな。……哀れな事だ。 実のところ、このお葉の姿がここ暫く吉原の中に現れると騒ぎになっている。 特に客の取れない彼女をいじめた遊女などは三味線の音を聞くだけで半狂乱になるそうだ」 「そんな……馬鹿な。 俺達、今朝文をもらったばかりなんだぜ。 この吉原細見にもちゃんとお葉ちゃんの名前が載ってるじゃないか」 細見を取り出して見せる京梧を龍斗が押しとどめた。 「止せ。 この同心は嘘は吐いていない。 吉原細見を見せても詮無いことだ。 毎日発行しているわけじゃない。年二回春秋に出しているだけのそれがなんの証になる」 「だって……そんな……」 そう言うと、京梧は荻原屋のある方向へ走り出した。 人ごみを抜けて走っていくそれに追いつけそうも無い。 「おいっ! 京梧!」 「まあ、行く先は同じだ。 あせることも無いだろう」 慌てて追いかけようとした雄慶とは逆にむしろゆっくりとした歩調で龍斗は荻原屋へと向かう。 荻原屋二階。 薄暗いその部屋では、一人の女が三味線を持って待っていた。 以前町で会ったこの女……桔梗、と言ったか。 外の女であるのにそれが当然のように吉原の中で三味線を爪弾いている。 「お葉ちゃんは、どこだ……」 真正面に立ち、京梧が桔梗に問いただす。 刀を持った男に立ちはだかれていると言うのに動じる事も無く桔梗は三味線を弾き続けている。 「ここにいるよ。 ……ねえアンタ、この三味線の名前、覚えているかい?」 その言葉に、誘われたかのように京梧の口から言葉が吐き出される。 「…………お葉……」 それが、全ての答だった。 「ご名答。 そこの兄さんも全てわかったみたいだね。 そう、この三味線はあの子そのものだよ。 百に足りない九十九神……お葉の怨念が篭ったものさ。ねえ?」 詠うように言うと、桔梗は己の傍らに目をやる。 すると、今まで何も無かったそこに朧な姿が浮かび上がった。 「散々利用するだけ利用しておいて、病になった途端に厄介者扱い。 そんな吉原、江戸に復讐するためにこの子は戻ってきたのさ」 桔梗のどこか楽しげな口調とともに次第に明確になるその姿。 向こう側が透けて見える他は数日前に見たのと変わらないその姿。 「嘘だ……」 「京さん、龍さん……」 朧な姿が声を放つ。 寂しげな表情で。 「嘘だ。 お葉ちゃん、あんた言ってたじゃないか。 吉原が好きだって。ここが自分の居場所なんだって」 はっとしたように、お葉が顔を上げる。 からかうように桔梗が言う。 「その人の本当の思いなんて、その本人にしかわからないものなんだよ。 誰の心にも陰はある。 勝手に理解したなんて思うのは、ただの傲慢な考えさ」 「ああ、そうだろうな。 その考えには賛成だ」 今まで口をはさまなかった龍斗が静かに口を開く。 「だが、それはお前にも言えることだろう。 本当の思いは、……本人にしかわからない。 陰も陽も、それは本人だけのものだ。 それを勝手に手助けしようとするその考えこそ傲慢と言うものだろう」 「なんだって……?」 龍斗は桔梗の事など見てはいなかった。 ただまっすぐにお葉の姿を見据えている。 それに後押しされるように、お葉が口を開く。 「私……私。 本当は、こんな事したくない……」 「お葉!」 「私、忘れていた。 辛い事ばかりが残ってしまって、楽しかったことや嬉しかった事を忘れてしまっていた。 今、憎しみだけで行動してしまったら吉原を居場所としていた私が無くなってしまう。 私は……吉原を好きだったお葉のままで逝きたい」 「あんたは吉原が憎かったんだろう! 復讐をするんだよ!」 桔梗の言葉にも、すでにお葉は傾く事が無かった。 静かにゆっくりと首を横に振る。 「さあ、手助けはもう必要が無いようだが、どうする?」 嘲笑を浮かべる龍斗に、桔梗も自身の敗北を悟った。 「仕方が無いね……。 次に会うときにはこうはいかないよ。 この江戸は近いうちに必ず滅びる。 それはあたし達がやるんじゃない。今まで弱いものを踏みつけにしてきた江戸の矛盾そのものが江戸を滅ぼすんだ。 あたしは鬼道衆が一人、桔梗。覚えておきな」 「次はねぇ、逃がすかっ!」 咄嗟に手を伸ばした京梧だったが、その刹那桔梗の姿は掻き消えた。 そしてその姿があった場所に小さな紙片が落ちる。 「……式か」 本人は追いかけてつかまるような場所にはいないだろう。 「迷う霊を利用するとは鬼道衆、許しがたい所業だな」 「あの女、次に会ったときには容赦しねェ……!」 「……京さん、龍さん」 「お葉ちゃん!」 みると、お葉の姿がはじめ現れたときと同様にまた朧と化しつつある。 「もう、逝かなければ……」 「待てよ、吉原の夜は長えんだろ? もう少し、名残を惜しませてくれよ」 そんな事を言う京梧に、哀しげにお葉は笑った。 「貴方たちのおかげで私は吉原を、自分の居場所を失ってしまわずにすんだ。 迷惑をかけて、ごめんなさい。 そして、ありがとう……」 その言葉を最後に、ゆっくりとお葉は姿を消した。 外からは賑やかな笑い声や三味線の音が漏れ聞こえてくる。 ……お葉が愛した吉原の音が。 「生まれては苦界、死しては浄閑寺……か」 呟くように龍斗が言う。 お葉をはじめとして吉原で亡くなった女はこの浄閑寺に弔われる。 安政二年の大地震では死んだ遊女を物のように投げ込んだことから投込寺とも呼ばれるそうだ。 「死んでからもそのような扱いをされたのでは浮かばれんな」 雄慶の言葉に、冷めた口調で龍斗が返す。 「別に、死んでしまえば体などはただの器だ。 どのように扱おうとかまわないと思うがな」 相変わらずの龍斗の言葉に閉口する。 ふと思い出したように京梧が尋ねた。 「そういえば龍斗、いつもは何言われてもなかなか動こうとしねぇのに今回は妙に自主的に動き回ってたよな。 ……ひょっとしてお葉ちゃんに、惚れてたのか?」 その言葉に、眉を顰める。 「冗談を言え。 ……ただ……」 「ただ?」 「少し羨ましかっただけだ。 たとえ欺瞞だろうとここが自分の居場所だとはっきりと言い切ることの出来たあの女が……」 そう言って、あとはただ空を仰ぎ見ていた。 向こうから、花と水桶を持った藍と小鈴が近寄ってくる。 賑やかな声が、聞こえる。 〜第五話へ続く〜 戻る SS総合入り口へ戻る |