男は、必死に胸を掻き毟っていた。 その手にも、胸にも蛇紋。 ここ数日、江戸は冬が舞い戻ってきたような寒さであったが、熱に麻痺した身体はそれすら感じ取ることが出来ないようであった。 霞んだ瞳であらぬ方向を見つめながら、男は絶命した。 周囲の人間を畏怖させるに充分な言葉を残して。 ……鬼が…鬼が、来る…… 戸を開け放つ音と、差し込んで来た光に龍斗はゆっくりと瞼を開いた。 泊まったのは、結局昨日大騒ぎをした古い寺である。龍泉寺と言うらしい。 ここを本拠とした龍泉組という名の組織に半ば無理矢理入れられてしまったが為に居住もここと定められてしまった。 当然、江戸に住居のない雄慶と京梧も同様である。 宿代がかからないのはいいが面倒事をことあるごとに引き受けさせられるのは目に見えている。 日の光がまだ薄い。 同じように目を覚ました(らしい)京梧が戸を開けた(らしい)雄慶に絡んでいる。 会話を漏れ聞くに、まだ明け六つ(午前六時)らしい事を知って再び龍斗は目を閉じた。 「クソ坊主をクソ坊主と言って何が悪いクソ坊主!」 「おのれこの鈍ら剣士! 口で言ってわからんものには制裁あるのみ!」 けたたましい怒声が聞こえてきたと思うと同時に、龍斗のいた部屋の襖が蹴破られ二人がもんどりうって転がり込んでくる。 「………」 「よぉ、おはよう、緋勇」 「…………」 「龍斗、この坊主がこんな時間に叩き起こしやがって…」 「……………」 「あの……龍斗?」 「……………殺す」 ゆっくりと立ちあがる。 目が据わっている。 「ちょ、ちょっとまて、龍斗!」 「問答無用…!」 「いいかげんにしなっ!」 突然入った横槍の声に、危うく乱闘は中断された。 声の方に三人が振り向くと、鬼のような形相をした時諏佐が立っている。 「と、時諏佐先生」 「なんだよ、百合ちゃんか。」 「いい歳して朝っぱらから何をやってるんだい。」 「「それはこいつが……」」 「問答無用。襖を直したらあたしのところまでおいで。 頼みたいことがあるからね」 それだけ言うと、時諏佐はその場を去っておく。 残ったのは三人と、壊れた襖。 「襖の修理って誰がするんだ?」 「当然、俺とお前だろうな……」 「龍斗、手伝ってくれ」 京梧の虫のいい頼みに、龍斗は満面の笑みで答えた。 「絶対に嫌だ」 「で、結局百合ちゃんの用ってなんだろうな」 「どうせ面倒事だろう」 「だろうなぁ……。なぁ、いっそのこと逃げちまわねぇか?」 「どうせ、一時凌ぎにしかならん」 「一時しのげればいいじゃん」 小気味いい程に何も考えていない。 「なっ! じゃあ行こうぜ」 「何をしている! 時諏佐先生の用を無視する気か二人とも!」 襖の修理をしていた雄慶が京梧の様子に気づいて声を上げたときには既に京梧は龍斗を伴って寺を出るところだった。 龍斗のみちらりと振り返る。 「悪いがそういうことだ。今日はこいつに付き合ってみる」 しばらく雄慶が追ってこないことを見て取ると、京梧は欠伸をしながら大きく伸びをした。 そしてまだ朝食も取っていないことに気が付き、結局昨日と同じ蕎麦屋へ入ることになった。 「はぁ、やっと人心地つけたぜ」 「自分が蒔いた種だろうが」 「そうは言ってもだなぁ。 俺には他にすることがあるんだから」 「…道場破り、か」 「そう。とりあえずはいま評判の桧神って奴のところに行ってみようと思うんだけどな。 熊みてぇにでかい奴か、それともすかした野郎か。是非とも手合わせしてもらいたいもんだぜ」 桧神、とは昨日この蕎麦屋で主人に聞いた名前である。 このあたりの女に人気の剣士で、強さもまた類を見ないものらしい。 「女に人気だと言うのだから、熊みたいと言うことはないだろう」 「あぁ、そういやそうだな。 まあどんな奴だとしても鬼より強いってこたぁないだろ」 昨晩鬼を倒したことが京梧の自信を増長させているらしい。 そう思いつつ敢えて返事をせずに黙っていると、傍の机で食事をしていた女がこちらへ近寄ってきた。 「ねぇあんた、今の口ぶりだと鬼に会ったことがあるみたいじゃないかい?」 京梧が何か言おうとするのを制して先に口を開く。 「盗み聞きとは趣味が良いな」 「あらいやだ、そこの兄さんの大きな声が勝手に耳に入ってきたんだよ」 そういって、軽く笑う。 艶然とした美女だ。 襟元を大きくはだけさせ、白い肌を惜しげもなく晒している。 「あたしは桔梗っていうんだけどね。で、兄さん、どうなんだい?」 「ああ、昨日の晩に鬼を斬ったのさ」 軽く京梧が昨晩の顛末を話して見せる。 龍斗は舌打ちをしそうになるのを押さえた。 この男は口が軽すぎる。 世間話のように耳を傾けているこの女の目は真剣そのものだ。 与太話を聞いている風を装っているだけだ。 「へぇ……鬼といえば、兄さん達こんな話を知っているかい? 小石川療養所で鬼の騒ぎがもちあがってるって」 「…何……?」 「なんでもあっちでは今原因不明の病が広がって大変らしいよ。 突然熱があがって息が出来なくなって身体中に蛇の鱗みたいな紋様が広がるんだってさ。 で、大抵最後にはそのまま死んじまうんだけど、その病人達が最後に言ったのが…」 「…まさか」 京梧が息を呑む。 その答えは聞かなくても推測がつく。 「そう。『鬼が来る』…って。 なんでも小石川の傍にある屋敷には昔蛇の化け物が住んでいて、それを殺した家の者に祟った、って話もあるらしいよ。 偶然にしちゃあ出来すぎてるねぇ」 「…詳しいな」 険のある龍斗の台詞に、桔梗は動揺するでもなく微笑んだ。 「あたしも又聞きさ。 ただ小石川の方じゃ皆が言ってるよ」 「なぁ龍斗、さっきの話、どう思う?」 蕎麦屋をでると、おもむろに京梧が口を開いた。 「とりあえず、任務の方が追いかけてきたみたいだな」 そう言って、龍泉寺の方に足をむける。 すると、見覚えのある後姿が目に入った。 雄慶だ。 「へ? 雄慶? …ああ、確かにあのでかい後姿は間違えようがないな。 よぉ、お前も結局逃げ出してきたのか?」 京梧の声に、さも心外と言わんばかりの表情で雄慶が振りかえった。 「お前達と一緒にするな。 俺は時諏佐先生に頼まれてここの長屋に届け物をしていただけだ」 「なんだよ、頼みってお使いかよ。 やっぱりお前一人で充分じゃねぇか」 京梧と雄慶がそろそろ馴染みになってきた口論をはじめたその時、背後の長屋から爆音が響いた。 「……!」 「鬼か…!?」 「違うな」 気色ばむ二人に対して、龍斗は平然としたものだった。 「賭けてもいい。鬼ではない」 「なんで判るんだよ、龍斗」 「判らんのなら、説明しても無駄だ。 まあ行って見ればはっきりするだろう」 そう言うと、悠然と歩を進める。 怪訝な顔をしながらも雄慶と京梧もそれに従った。 爆音がしたあたりに行ってみると、長屋の一室の戸が開き、煙と供に一人の男が出てきた。 顔も着物も煤で汚れている。 「はぁ、まいりましたねぇ……。 ん? あんたがたどうかしましたか? 屈強そうな兄さんが三人も揃って」 「こっちですげぇ音がしたから飛んできたんじゃねぇか!」 細目の、いかにも呑気そうな容貌の男の様子に調子を狂わされながらも京梧が答える。 「ああ、こりゃすいません。 あたしは支奴洒門といいましてこの長屋でからくりをつくったりしているもんなんですがね。 今日はどうも火薬の調整を少々誤ったようでして……」 「はた迷惑な奴だな。」 「ここらへんの人は皆知ってるんでどうもないんですがね。 まあ御迷惑をかけたお詫びです。 これでも持ってってください」 そういうと、支奴は一冊の冊子を京梧に手渡した。 「…なんだ? これ」 「吉原細見といいましてね。 まあどこの店にどんな遊女がいるとか、そういう事を記した吉原の案内書ですね。 あたしには用がないものなんで、よかったら」 「支奴だったか? お前、いい奴だなぁ!」 「…くだらん、蓬莱寺、帰るぞ!」 雄慶があきれたように言う。 「龍斗の言う通り、違ってたなぁ」 「そうだな。あの男のことを知っていたのか?」 二人の言葉に、龍斗はつまらなそうに顔を背けた。 「同じ事を何度も言わせるな。判るものは判るだけだ。 ……お前達なら、すぐに判る……」 この言葉の意味がわかるのは、夜が更けてからであった。 次頁へ 戻る SS総合入り口へ戻る |