「あ、千石さん、何飲みます! 私おごりますから!」 「そう? んじゃホットコーヒー」 返答を聞くが早いが早足でレジカウンターに巴が向かう。 日頃なら絶対にない光景だ。 たとえおごってもらうことがあったとしても、頼んだものがたったコーヒー一杯だったとしても、いつもの千石なら彼女だけを向かわせるようなことはしない。 ドリンクの載ったトレイを運ぶのはいつも千石だ。巴が遠慮しようとそれは今まで譲ったことがない。 それが今日に限って千石が一度座った椅子から動こうとしないのにはもちろん、理由がある。 彼は今、機嫌を損ねているのだ。……もちろん巴が原因で。 「お待たせしましたー。……千石さん、まだ、怒ってます?」 「べぇっつにー。傷つきはしたけど」 千石に合わせたのか、彼女が注文したのもホットコーヒーだった。 ファーストフードのチェーン店で注文する二杯のコーヒーなんてあっという間に出てくる。 したがって『まだ』と言われるほどの時間は経過していない。 何が原因かというと、まあくだらないと言えばくだらないことだ。 巴が友人に千石の事を『2回までは浮気しても許してあげようと思う』などと言っていたことがバレたのだ。 元々は浮気しないように気をつけろとかなんとか言われてその返答がこれだったようなのだが。 コーヒーのカップを片方受け取ると一口すするとわざとらしく大仰な溜息をつく。 「信用されてないにも程があるよね」 「あ、あれは言葉のあやというか勢いというか…っていうか絶対許さないって言われるよりいいんじゃないんですか?」 愚痴る千石に巴が言い訳とも逆切れともつかないようなセリフを吐く。 勢いでそういうセリフが出てきたのが問題なんじゃないかと思わないでもないんだけど。 「それじゃあ訊くけどさ」 「はい?」 「赤月さん、キミが許すって言ってる浮気って具体的にはどういうの?」 「……え?」 虚を突かれたような顔。 『何も考えてませんでした』ってこの時点ですでに顔に書いてある。 「たとえば、こんな風に誰かと二人でコーヒー飲んでるようなこと? それとも、誰かと手をつないで歩いてるとか」 そんなこと絶対にありえないけど、と心の中で付け足しながら続ける。 「……他の女の子と、キスとかしちゃっても赤月さんはかまわないんだ?」 千石の意地の悪い発言に、巴の眉が八の字に下がる。 その反応に内心少しだけ安心する。 これでそれでもOKとか言われたら立ち直れない。 「え……それは……」 「何?」 「ちょっと嫌です」 「じゃあどれくらいまでならいいの? 教えてよ」 追い打ち。 両手に持ったまま飲まれる様子のないコーヒーから白い湯気が曇り気味の彼女の顔に向かって立ち上っていく。 普段は欠かさず入れてるミルクと砂糖もカウンターから持ってくるのを忘れたようだが、それに気付いている様子はない。 答えを促した千石に、少しの逡巡の後若干目を反らす。 自分でも相当根性が悪いと思わないでもないけれど、傷ついた分彼女も少しは困ればいいと思う程度には千石もまだ大人ではない。 「…………」 「どうしたの?」 「……だって、あんまり束縛するようなこと言って嫌われたくないじゃないですか」 拗ねたようにそう言って上目遣いにこちらを軽く睨む。 あ、それはずるい。反則。 もう少し責めてやろうとか思っていたけどそれをやられるとこちらは弱い。 思わず知らず顔がにやけて怒った顔も作れない。 「あー、もう! ……降参」 「え?」 唐突に両手を挙げると巴が驚いたような顔を見せる。 「ちなみにね、赤月さん」 「はい」 「俺はやだよ。どれも。……俺の事、嫌いになる?」 千石の言葉に巴は大きく首を横に振った。 そして、少し困ったような顔を見せるとぺこりと今度は頭を下げる。 「軽率な事言っちゃってすいませんでした」 「よろしい」 ふんぞり返ってわざと芝居がかった口調で言うとやっと巴がいつもの笑顔に戻る。 そしてひとつ余計なことを付け足した。 「けど、私は千石さんみたいにモテないからそんな心配ないですよ」 「……わかってないなぁ……」 ぼやくように小さく呟いた千石の言葉に巴が軽く首をかしげる。 それには答えずに千石は腰を上げた。 「赤月さん、砂糖とミルク忘れてるでしょ。取ってくるよ」 「え、あれ、あ、本当だ! いいですよ、自分でとってきます!」 「いいからいいから。コーヒーはおごってもらってるんだし」 言いつつ巴を制して歩き出す。 そして彼女に見えないところで軽くため息をついた。 ほんっとわかってないよなぁ。 俺が他の子なんてまったく目に入らないくらいにはキミにぞっこんだとか。 自分がどれだけ魅力があるのかとか。 浮気だなんて冗談じゃないよ。 本当は、キミが思ってるよりきっとずっと俺は嫉妬深いし、独占欲も強い。 こうして一緒にいる時間以外の時にキミが誰かと笑いあったりしてると思うだけで気が気じゃないってのに。 カウンターから細身のシュガースティックを二本、そしてクリープを一つ掴むと再び彼女の待つテーブルに戻る。 笑顔でお礼を言って砂糖とミルクを入れたコーヒーを巴は嬉しそうに飲む。 まあ、いいか。 これから徐々にわかってもらえばいいだけの話だ。 ……時間はかかるかもしれないけれど。 もっとも、できれば彼女自身の価値に関しては永遠に気付かないままでいてほしいものである。 |