初めて手塚のプレイを見たのは、校内ランキング戦の時だった。
それまでも部長の圧倒的な強さに関しては耳にしていたし、練習中にもやはりその卓越した技能の高さは目についた。
だが、目の前で繰り広げられるプレイは巴の想像を遥かに超えていた。
決して乱れることのない正確なストローク。
まるであらかじめそこに落下することが決まってでもいるかのようなダウン・ザ・ライン。
毎日自分がやっているテニスと、今部長がやっているテニスというのは本当に同じものなんだろうか、と思う程その動きは洗練され、かけ離れていた。
巴は一瞬で手塚のテニスに魅せられたのである。
遥か高みにある、漠然としか浮かばなかった自分の理想。
そのひとつの形がこれなのかもしれないと思う程に。
そう、憧れていた。
そして、その憧れていたシングルスプレイヤーであった手塚から、全国大会でのダブルスパートナーに申し込まれた時、巴は即答が出来なかった。
「なんで悩むの?
あの部長とダブルス組めるなんてラッキーじゃない」
理解できないという風に那美が首を傾げる横で、巴が大きく溜め息をつく。
那美の言う事はもっともだ。
「うん、そうなんだけどね……手塚部長はシングルスだって思ってたから」
「あ、それは私も意外だった。
あの手塚部長が最後の舞台でダブルスとは思わなかったな。
……ねぇモエりん、ひょっとして部長がダブルスなんてもったいないとか思って返事出来なかったの?」
「…………」
巴は答えない。
那美は肩をすくめると食べ終わったお弁当を片付けた。
「なんにせよ、早めに返事しないとダメだよ。
大会までそんなに日がある訳じゃないんだから」
そう、早く結論を出さなければいけない。
それなのに、巴はいまだ決めかねていた。
もったいない。
那美の指摘は間違いではない。
ダブルスを軽視しているつもりは毛頭ないが、手塚は生粋のシングルスプレイヤーである。
ダブルスで手塚の実力が存分に発揮されるのかは疑問だ。
ただ、迷いの原因はそれだけではなかった。
「赤月、なんだその素振りは。
気が入っていないようだな。グラウンド二十周!」
練習に集中できないでいると当の手塚から檄が飛ばされる。
ちらりと心配そうにこちらを見た那美に無理に笑顔を見せて軽く手を振ると巴はグラウンドにダッシュした。
一周、二周。
罰則とは言え、ランニングは考え事をするには適している。
走りながら、自分の本音を考える。
手塚とペアを組みたくないのかと言えばそんなことはまったくない。
だけどそれ以上に巴の胸を席捲するもの。不安。
「……月……赤月!」
手塚の声に我に返る。
と、同時に腕を掴まれた。足が止まる。
「なに、…か?」
息を整えつつ尋ねる巴に手塚が呆れたような顔を見せる。
「俺が命じたのは二十周までだ。いつまで走り続けるつもりだ?」
そういえば罰則でランニングをしていたのだった。
周数などすっかり数えることを失念していた。
一体何周走ったのだろう。どうりでなかなか息が整わないわけだ。
「どうかしたのか、赤月」
思わず地面にへたりこむ巴に手塚が簡潔に尋ねる。
その、いつもどおりの冷静沈着な物言いが急に勘に障った。
自分がこんなに考え込んでいるのは一体誰のせいだと。
「部長、どうしてミクスドなんですか!?
中学最後の大会じゃないですか。シングルスで出場すれば全力で、悔いのない試合が出来るじゃないですか。
私には無理です。部長のパートナーを務めるだけの実力はありません!」
八つ当たりだ。自分の責任を手塚に押しつけた。
自信がないのは事実だが、それをこんな風に叩きつけるつもりはなかった。
しばし、意表を付かれたような顔をして手塚が押し黙った。
呆れられただろう。
愛想を付かされたかもしれない。
やがて、しばしの沈黙の後手塚が手に持っていたラケットを巴に手渡した。
てっきり手塚のものだと思っていたそれは良く見ると巴自身の物だ。
手塚の意図が読めず、少々戸惑いながらラケットを受けとる。
「ガットが緩んでいる」
「え? ……あ、はい、すぐ張り替えます」
思わず条件反射で言ってから、先ほどまでの会話とまったく関係がない事に気づく。
今までの流れの次がなぜガットなのだ。
「お前のラケットは他の部員より張り替えの頻度が高い」
ストリングテンションを下げろとでも言うのだろうか。
「それだけで判断して言う訳ではないが、お前は連日かなり熱心に練習に取り組んでいる。
もちろん熱心な練習だけで勝てるほどテニスは甘くはない。
が、お前の実力は卑下する必要のないものだ。
全国大会、この最後の舞台にお前とのミクスドを望んだのは、それが一番自分にとって有益だと判断したからだ」
そこまで言ってから手塚は一旦言葉を止め、まっすぐに巴を見据えた。
「……赤月。
お前は先ほど『自信がない』と言ったが、それでは、黙って待てばいずれその自信は身につくのか?」
虚を突かれた。
そんな事を言われるとは思っても見なかったからだ。
自分の言葉がただの逃げだと巴自身が一番良く知っている。
そしてそういう心構えでいる限り、いくら待ってもらっても自信など身につく筈がない。
差は開く一方だ。
自分とペアを組むことが有益?
本当にそうなのだろうか。巴にはわからない。
答えをまだ迷う巴の沈黙をどう解釈したのかは知らないが、再び手塚が口を開いた。
「先日話した留学の件だが……、返答はまだ返していないが受ける事に決めた。
シングルスで大会に出る機会はこれからもあるだろう。
だが、お前とダブルスを組める機会は今を逃せばいつになるかわからん」
留学。
そうなんだ。
部長はさらに前に足を踏み出す決意を固めたんだ。
だったら、私も前に進まなくちゃダメだ。
今、変に臆病になって足踏みしたら二度と部長の隣には立てない。
自信なんてゼッタイに持てなくなる。
そんなのは、イヤだ。
「部長」
「なんだ」
ラケットを握り締めると、勢い良く頭を下げる。
「情けない事言っちゃってスイマセンでした!
全国大会、よろしくお願いします!」
踏み出す前に怯えているのなんて、私じゃない。
自分にパートナーが務まるかどうかなんて、一歩踏み出してから考えればいい。
ダメだったら、務まるように頑張ればいい。
だって、これが、私に取っても最後かもしれないチャンスなんだから。
「……そうか。
では、宜しく頼む。コートに戻るぞ」
そういうと手塚は背を向けて先にコートへと歩いていく。
それを追って巴も駆け出した。
前へ向けて、その一歩を踏み出して。
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