もうダメだ。
耐えきれない。
荷物を乱雑にバックに詰め込むと、巴は宿舎を後にした。
選抜合宿に参加して5日。
今まで持っていた自信は完全にへし折られた。
これ以上ここに居座るなんて到底出来そうにない。
人目を忍んで敷地を抜けた時、不意に横から声をかけられた。
「赤月さん、逃げるの?」
まるで緊張感のない言い方。
セリフの内容が「今から休憩?」とかでもまったく違和感がなかったろう。
いやむしろそっちの方がしっくり来る。
その口調と同じく、やはり世間話でもしているような様子でそこに立っていたのは、騎一だった。
「天野君……」
誰にも気付かれないうちに出て行きたかったのに。
巴は唇を噛んだ。
「引き留めに来たんだ。
……って言いたいところだけど俺もあんまり人のこと言えないからなあ」
「え……天野君も出て行くつもりなの?」
しかし騎一の格好は選抜ジャージだけで荷物も何もない手軽なものだ。
どう見ても今からここを出て行きそうには見えない。
「今じゃないよ」
「じゃあこの後?」
「違う違う。
もう、ずっと前の話」
「へ……?」
苦笑気味に手を振って訂正する騎一に巴は混乱する。
逃げたんだったらどうして今ここにいるの?
連れ戻されたの?
でも、そんな話はどこからも聞いていないし、騎一に変わった様子もなかった。
そんな巴の疑問は表情に露骨に出ていたんだろう。
少し笑うと、騎一は静かにその答えを告げた。
「この合宿での話じゃないよ。
もっとずっと昔。
青学に入るよりもずっと前。
俺、中学入るまでテニスやめてたんだ」
「え……?」
初耳だ。
騎一がテニス経験者だと言う事は知ってる。
リョーマの影に隠れてしまいがちだが、騎一もまたジュニアではそれなりに強かったらしいというのもまあ知られた話だ。
でも、中学に入るまでテニスを中断していたという話は聞いた事がなかった。
騎一の幼なじみの朋香だって何も言わなかった。
「まあ、別に隠してる訳じゃないんだけどね。
とりたてて吹聴する話でもないから」
知ってる人も結構いるよ。
そう言ったけど、多分それはあまり話したくない話なんじゃないだろうか。
「せっかくだし、少しだけ昔話、聞いてくれる?
バスが来るまでの間でも」
そう言って巴からバックを取り上げ、先に立って歩く。
どうやら本当に巴を止めるつもりはないみたいだ。
ほっとしたような拍子抜けのような複雑な気分を抱えながら巴もついて歩く。
バックを持たせるのは悪いと思って取り返そうとしたが、騎一は「無駄話聞かされる代金と思ってよ」とバックを譲らなかった。
歩きながらぽつりぽつりと騎一が話しだす。
「小学生の頃、俺結構強くてさ。
まあちょっと調子に乗ってたところもあったのかも知れない。
で、スクールからいろんな大会出てたんだけど、一度試合で俺の打った球が対戦相手に直撃してさ」
子供の打った球と言えども全力で打たれた硬球だ。当たった場所も悪かった。
騎一のボールを食らった相手はそのまま、コート上に倒れた。
まるで、支えを失った人形のように。
「もう試合続行どころじゃなくなってさ、救急車で相手の子は運ばれてった」
淡々とそこまで話したところでバス停に到着した。
騎一は時刻表を確認して、まだしばらく来ないなあ、と呟くように言った後、呆然としている巴に再び話を続ける。
「もちろん、事故だよ。相手にも大事はなかった。
けど、俺は、怖くなったんだ。
ボールを打つ事で、コートに立つ事で、そうやってまた誰かを傷つけるかもしれない事が」
だから、逃げた。
次の試合に騎一は向かう事が出来なかった。
試合放棄でその大会を終えた後、逃げるようにスクールもやめた。
そして、そのまま、青学に入学するまで、ラケットを持つことすらしなかった。
そんな事実を騎一は巴に告げた。
つらそうな顔をするでもなく、言いよどむでもなく。
ただ事実を、世間話でもするように。
「でね、赤月さん。
経験者から一つ忠告。
好きなことから逃げるってのも、けっこうキツイよ?」
逃げ続けるのも、戻るのも。
「俺なんかは結局戻る事ができたけど、
あの時試合放棄した相手からは未だに恨まれてるもんなー……って、あ、赤月さん!?」
苦笑しながら巴の方を向いた騎一がぎょっとして黙る。
巴が、泣きながらこちらを睨んでいたからだ。
「え、あの、な、なんで泣いてるの?
俺なんかマズイこと言ったかな?」
「…………天野君、ズルイ」
「え? やっぱ俺のせい? っていうかズルイ?」
すっかり混乱した天野が必死でポケットを探るが、ジャージのポケットの中にはハンカチなんてシャレたものは入っていない。
オタついている間に、巴が自分のハンカチを取り出したのを見てほっとする。
涙を拭いて、なんとか口をきけるようになるまで少し。
「手塚先輩に三時間お説教されるより効いた……」
「ええ、そこまで!?」
へへへ、と力なく笑うと、巴はバックを手に持って立ち上がった。
バスは二つ手前の信号のところまで来ている。
「ゴメンね、天野君。私、帰る」
「それは、家に? それとも、合宿所に?」
バス停を背に、元来た道へと歩き出す。
夕日で街はオレンジ色に染まり始めている。
赤い巴の目も、夕日に染まって目立たない。
「合宿所に。
逃げないでもう一度頑張ってみる。
どっちにしろ初めからあの中で一番下手なんだから、あせることないんだよね」
そう言って、吹っ切れた笑顔を見せた巴に、騎一も安心したように笑った。
「そっか。良かった。
じゃ、帰ろう、赤月さん」
また、バックを受け取ろうと騎一が差し出した手に、少し考えて巴はバッグの持ち手ではなく、何も持っていない左手を掴ませた。
「うん、帰ろう!」
「あの、ちょっと、赤月さん?
俺そういう意味で手出したわけじゃ……!」
さっきまでとは裏腹にひっくり返った声を出して動転する騎一に、巴は笑いながら合宿所までそのまま走り出した。
口の中で小さく「ありがとう」とつぶやいて。
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