嘘だ。
ありえない。
これはきっと何かの間違いだよね。
うん、そうに決まってる。
そんな筈ないって!
何度もそう自分に言い聞かせていた巴だったが、どうやらそろそろ現実を受けとめなければならないようだった。
「ここ、どこなんだろう……」
要するに、自分が迷子になってしまっているという現実を。
信じられない。
ここに来てすぐの頃ならともかく、今更この街で迷子になるなんて。
初めのうちは、そのうち見知った風景にぶつかるだろうと呑気に構えていたのだが、どこまで行っても見覚えのない風景ばかり。
久しぶりに自分が都会に慣れていない事を再確認して情けなくなる。
しかし、反省している場合ではない。
とりあえず家に到達しなくては。
適当に歩き続けて一時間。
そろそろ帰り道の見当くらいはつけないと帰宅が夜になってしまう。
とはいったものの、あたりには人影もない。
途方に暮れつつあたりを見渡していた巴だったが、天の助け。
ジョギング中らしき人影が近づいてきた。
これは問答無用で捕まえて道を聞かなければ。
「あの、すいません! ……あれ、海堂先輩?」
気合を入れてかけた言葉が、終盤急に気の抜けたものになる。
大声で呼び止めた相手は、非常に見知った顔だった。
「赤月か。こんなところで何してんだ」
海堂の、無愛想を通り越して怖い顔がこんなに頼もしく見えた事もない。
後光が見えそうだ。
思わず伏し拝みそうな勢いの巴だったが、自分が今からやる事を思うとテンションが下がる。
知らない人相手なら、なんという事もないのだが、見知った相手に道を聞くというのは些か恥ずかしい。
「……赤月?」
黙り込んだ巴に、海堂が訝しげな顔をする。
考えていてもしかたがない。背に腹は替えられないのだ。
意を決して口を開く。
「あの……海堂先輩、つかぬことをお伺いしますが……ここは、どこなんでしょう?」
意表を突かれた質問に、海堂の動きが止まる。
やっぱり、恥かしい。顔が赤くなるのが自分でも判る。
「……お前、どうやってここまで来たんだ」
「ぼーっと散歩していましたら、いつのまにやら……」
「つまり、迷子か」
海堂の言葉に、情けない表情を浮かべて巴がうなだれる。
ああ、やっぱり呆れられてる。
しかし、海堂は呆れているというよりは、驚いていた。
越前の家から海堂の走りこみのコースであるここまではかなりの距離がある。
ちょっと散歩どころではない。さすが巴といったところか。相変わらずポテンシャルを無駄に披露している。
「……来い」
先に立って歩き出した海堂に慌てる巴。
「え、あの、別に駅かバス停の場所を教えてもらえれば一人でも」
「いいから来い」
仕方なく巴も後に続く。
トレーニング中の海堂の邪魔をしてしまったのが申し訳ない。
そして、てっきり何か言われるかと思っていたのだが、巴の迷子に関して海堂は何も言及しなかった。
「先輩はいつもあそこまで走りこみしているんですか?」
「ああ」
「朝夕?」
「ああ」
「すごいですねぇ。私なんて部活の他には朝のジョギングが精一杯ですよ〜」
「人それぞれだろう、練習量なんてのは」
話しながら歩き続ける。
とは言っても専ら喋っているのは巴で海堂は相槌を打つか、質問に答える程度であるが。
と、海堂が立ちどまった。
「ここから乗れば、どの路線でも青春台に着く」
バス停だ。
もう着いちゃったのか、となぜか少し残念に思う。
「ありがとうございました、海堂先輩! 先輩は命の恩人です!」
「いくらなんでも大げさ過ぎるだろうが、それは……」
呆れたように海堂が言うと、ムキになって巴が反論する。
「大げさなんかじゃないですよ! 本当に途方に暮れてたんですから。
だから、海堂先輩に会えて、すごくほっとしたんです」
天の助けと思った先程の事を思い出し、思わず笑顔になる。
「……フン」
海堂が顔を逸らした。
ひょっとして、照れたのかな。そんなことを思う巴。
ひとつ前の信号に、バスの姿が見えた。
結局少しの間とはいえ、バスが来るまで海堂が一緒に待っていてくれた事に気がつく。
「あ、バスが来ちゃいましたね。
それじゃ、走りこみの邪魔しちゃってすいませんでした」
と、不意に海堂が口を開いた。
「……今度は」
「え?」
「今度から散歩に行く時には、携帯くらいは持ち歩いとけ」
その言葉に、巴がぽんと手を叩く。
「あ、そうか。携帯持ってれば誰かに道を訊けたんですねー」
「そうしたら今日みたいに偶然に頼らなくても、迎えに行ってやれるだろうが」
「え? 海堂先輩がまた助けにきてくれるんですか?」
何気なく言った言葉を切り返され、思わず動揺する。
そうだ、別に、自分じゃなくても彼女をつれて帰れる奴なんて、大勢いる。
「いや、別に、俺じゃなくても、だ」
「でも、海堂先輩に連絡したら、迎えにきてくれるんですよね?」
嬉しげに巴が繰り返す。
「…………ああ」
微かに言った肯定の言葉と同時に、バスが到着した。
開いた扉に、何故か一瞬残念そうな表情を見せた後、巴は海堂にもう一度頭を下げた。
「あ、でも、もう迷子にならないようには気をつけます。
じゃ、本当に今日はありがとうございました。また明日部活で!」
このバス停から乗り込んだ乗客は巴だけ。
扉が再び閉まり、排ガスを吐き散らしながらバスが発進する。
なんとなしに見送っていると、一番後ろの座席から、巴がこちらに向かって手を振っているのが見えた。
「……フン」
バスが交差点を曲がると、海堂はまた走りこみを再開すべくバスとは逆方向に走っていった。
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