「あら、こんなのが入ってるわ」
由美子の声に、不二は顔をそちらに向けた。
母と一緒にお中元の包みを開けていた由美子の手に、何か棒のようなものが見える。
「何、それ?」
尋ねると由美子がそれを手にぶら下げた。
澄んだ音色がダイニングに響く。
「……風鈴?」
「火箸風鈴だって。
お酒と一緒に送られてきたの。洒落たお中元ねえ」
由美子が手を軽く動かすと、また風鈴が澄んだ音色を響かせた。
透き通るような、しかしよく通る音。
しかし母は困ったように首を傾げる。
「けれど、窓に提げてたら少し音が大き過ぎるかしら。
ご近所迷惑になるかもしれないし」
そんな心配がいるとは世知辛い世の中だ。
せっかくの音色を楽しまずに仕舞いこんでしまうのは勿体ない。
「母さん、じゃあそれボクがもらってもいいかな?」
翌日、昼休みに不二は部室に向かった。
昨日もらった風鈴を吊り下げる為だ。
昼休みに入ったばかりの部室にはまだ誰もいない。
大石から預かった鍵を使い、部室の扉を開く。
窓から差す日光に照らされて埃が別の何かのようにチラチラと舞うのが目に入る。
適当に机を窓際に引き寄せるとその上に足をのせ、身を乗りだし風鈴を取り付ける。
家と違いカーテンレールもないので、少し考えた結果ガムテープと針金を使う事にする。
ガラスや陶器の風鈴と違ってたとえ落下しても壊れてしまうことはないので安心だ。
チリィ……ン
手の振動が伝わってか、窓からの風をうけてか、風鈴が鳴る。
室内に、そして部室の外へと澄んだ音色を響かせる。
そんな作業に熱中していると、部室の扉が再び開けられた。
誰か知らないが随分早いな。
そう思いながらもそちらには目を向けず、作業を続行する。
と、向こうから声をかけられた。
「不二先輩、こんにちは!」
この声は。
見ると、やはりそこにいたのは巴だ。
全速力で教室から走って来たのだろう。息を弾ませ、髪がいささか乱れている。
「ああ、モエりん。どうしたの、昼練?」
窓枠から手を離し、笑いかけると巴からも笑顔が返る。
「はい。不二先輩は……違うみたいですね」
そう言うと興味深そうに窓、正確には不二が先程まで触れていた風鈴を見る。
すると、タイミングを見計らっていたかのようにまた微かな風が吹いた。
先程と同じように、澄んだ音色が響く。
「風鈴、ですか?」
見慣れない形に首を傾げながら巴がいう。
確かに形は違うが、まごうことなく風鈴の音だ。
「そう。暑いからね」
「風流ですねえ。
でも、こんな風鈴、私初めて見ました」
不二も昨日初めて見たばかりだ。
だけどこうやって興味津々に風鈴を見る巴を見ると、少し微笑ましい。
「いい音がするだろ?」
「はい。ちょっと『りん』の音に似てますけど、それよりもっと高くて澄んでますね」
『りん』?
何のことか一瞬分からなかったが風鈴の音に似ているもの、ということで一つの推測が成り立った。
「『りん』ってまさか」
「はい、仏具の」
やっぱり。
そんな発想に至る辺りがやはり巴らしい。
思わず苦笑した不二に巴が少し頬をふくらませる。
その間にも、風鈴は涼やかな音色を奏で続けている。
「いい音ですねえ……」
澄んだ音色に魅せられたかのように、巴が椅子に腰掛け、目を閉じる。
その様子を見て、不二は安堵した。
良かった、落ち着いている。
このところ、巴は妙に焦っているから、気にかかっていたのだ。
今日だってこんな早い時間に昼練習だ。
熱心なことは別にいい。
けれど、気ばかり焦っていてもどうにもならない。
それでは上達は早まるどころか逆効果だろう。
何故、そんなに先を急ぐのか。
春にテニスを始めたばかりとは到底思えないほどの成長を見せているというのに。
お世辞や贔屓目ではなく、今や彼女は青学になくてはならないレギュラーの一人だ。
なのに、彼女一人が現状に焦りともどかしさを感じている。
前のめりになりすぎてつんのめる一歩手前なのに、それには気付かない。
だから、今風鈴の音色に気を取られていることが嬉しい。
邪魔をしないように静かに不二も隣に腰を下ろす。
チリ、チリィ……ン
吹いている風は太陽の熱にさらされ、決して快適な風とは言いがたい熱風だが風鈴を通すとなんとも涼し気な錯覚を覚えさせる。
「随分気に入ったみたいだね」
不二の声に巴がはっとしたようにまぶたを開く。
目が合うと、慌てたようにそらされた。
「だって、すっごくキレイな音じゃないですか」
「そんなに好きなんだったら、あげようか」
「え?」
「夏の大会が終るまではここに吊っておこうと思ってるから、渡すのはその後になると思うけど」
「…………」
「あ、ゴメン。夏の終わりにあげたんじゃ意味ないかな」
巴の沈黙に不二はバカな事を言った、と後悔した。
風鈴なんて夏限りのものだ。
あげるのならば今差し出せばいい。
それを夏が終わってからなんて事を言ってしまったのは風鈴が惜しかったのではなく、巴のその表情が惜しかったのだ。
彼女に今この風鈴を渡してしまえば、巴はそれを自宅に持ち帰る。
そうすれば今不二の目に映る風鈴の音色に酔いしれる巴の姿は見られない。
のみならず、それは越前の目にだけ映るのだ。
それが我慢ならない、とは我ながら器が狭い。
けれどそれでもこの夏限りくらいは許してくれてもいいだろう。
来年の夏は、不二はこの部室にはいないのだから。
そんなことを考える不二に、巴は慌てたように勢い良く首を横に振る。
「いえ! 違います違います!
ちょっと考え事してただけで……」
「考え事?」
聞き返すと、不意に巴が真顔になりこちらに向き直る。
風鈴の効果が消えうせたかのように、突然室内の温度が高くなったような錯覚を覚えた。
「不二先輩」
「……なに?」
「私、先輩とミクスドペア組めて良かったです」
唐突な感謝の言葉。
嫌だな。
そんな言葉は聞きたくない。
そう思った。
それは終わりを前提とした言葉だ。
春に始まった関係が、夏と同じに終る。それを予感させる言葉。
「そうだね。ボクもそう思う」
それでも、不二の唇は同意の言葉を紡ぐ。
大会が終れば不二はもう引退だ。
その時が近づいている事を知っている、分かりすぎるくらい分かっている。けれど。
「けど、まだ終わりじゃないよ」
「はい、まだ次の大会がありますもんね!」
目指せ全国制覇! と意気込む巴に不二は苦笑しながら首を振る。
彼女はどこまでも前向きだ。
きっと後ろ向きに別れを恐れているのは自分だけなんだろう。
「うん、それもあるけれど、それだけじゃなくて。
次の大会が終っても、夏が過ぎても、ずっとボクはキミのパートナーでいるつもりなんだけど」
だから、そんな布石を打つ。
口にすることで、自分自身を安心させるように。
「え、いいんですか?」
驚いたように問う巴に、わざと首をかしげて問い返す。
「ダメなのかな?」
次の大会が終っても、夏が過ぎても。
ずっと。
「ダメなわけないです!
私も、ずっと一緒がいいです!」
不二の方へ身を乗り出すようにして言った巴の言葉に、思わず不二は微笑んだ。
これが安堵の笑みであると、きっと彼女は気付いてない。
不二を見て巴も笑顔を見せると、再びまた瞳を閉じた。
巴は風のようだ、と不二は思う。
今風鈴を鳴らす風のように不確かで、頼りないのに強い。
はっきりとそこに在るのに、留められないもどかしさも似ている。
だからこそ、少しでも側に捕まえておきたくなる。
焦っているのは、巴ではなく自分の方なのかもしれない。
「……あんまり無防備に目を閉じられると、何かしでかしたくなるかもしれないよ?」
からかうようにそう言うと、巴はまぶたを閉じたままで口を尖らせる。
「不二先輩はすぐそうやって惑わせるようなこと言うんですから」
それでも瞳を開こうとした巴の視界に映ったのは、眼前に近づいた不二の顔だった。
今までにない近距離に身じろぎする。
うろたえる巴に、不二はにっこりと笑顔を見せる。
「警告は、したよ?」
風鈴の音はまだ響いていたが、もう涼を与えてはくれなかった。
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