「ごちそうさま! じゃっ!」
怒涛の勢いで弁当を平らげると、勢い良く立ち上がり、次の瞬間にはもう巴の姿は教室から消えていた。
廊下の向こうからバタバタバタ……という(女の子としてはどうなんだろうという以前に廊下を走るのは問題だが)激しい足音だけが聞こえていたがそれもすぐ消える。
「あんなに急いで食べて、モエりん消化に悪くないのかなぁ」
「桜乃、あんな野生児の胃袋の心配なんてするだけムダよ」
「今日はまた、びっくりするくらい早かったね」
教室に残された朋香たちの弁当はまだ半分も減ってはいない。
そして彼女達が食事を再開した頃、巴はダッシュで部室へと向かっていた。
校舎から一歩外に出ると、きつい日差しが肌を刺す。
セミの声も一層大きくなったように思える。
今日は快晴だ。
時季的なものとはいえここのところ雨が多く、巴としては練習内容に満足がいっていない。
大会も近いし、なんと言っても巴はまだ初心者だ。
どれだけ練習を重ねても足りない。
なので、せっかく晴れた今日のような日は昼休みさえももったいない。
屋内練習では基礎体力作りや素振りは出来ても、どうしてもボールに触れる機会が少なくなる。
一人で出来る練習なんてたかが知れているが、壁打ちくらいは出来る。
チリィ……ン
はじめに気付いたのはその音だ。
夏を謳歌するように鳴き続けるセミの声の隙間から微かに澄んだ音色が巴の耳に響く。
そして、部室に足を踏み入れた巴の目に映ったのはなにやら窓に取り付けている不二の姿だった。
「不二先輩、こんにちは!」
「ああ、モエりん。どうしたの、昼練?」
こちらに気付いた不二が窓枠から手を離し、笑いかける。
昼休み中なので他の部員の姿はない。
「はい。不二先輩は……違うみたいですね」
そう言って、窓を見る。
窓枠から金属の棒のようなものがぶら下がっている。
不二が先程取り付けていたのはこれだろう。
微かに風が吹く。
再び、心地よい音が響いた。
「風鈴、ですか?」
「そう。暑いからね」
「風流ですねー。
でも、こんな風鈴私初めて見ました」
雑貨屋で売っているようなガラスや陶器の風鈴とは明らかに違う。
ウィンドチャイムに少し似ているが、それよりも少し無骨だ。
ただ、音はそのどれよりも澄んでいる。
「いい音がするだろ?」
「はい。ちょっと『りん』の音に似てますけど、それよりもっと高くて澄んでますね」
思ったままの感想を言うと、不二が少し妙な顔をする。
「『りん』ってまさか」
「はい、仏具の」
少し笑われた。
おかしな事を言ったのだろうか。
話している間にも風は心地よい音色を響かせ続ける。
「いい音ですねえ……」
気分が落ち着く音だ。
風の吹くままに任せているその音は不安定なリズムで、だからこそ心を捉えて放さない。
焦っていた気分が静まっていくような気がする。
巴はそのまま部室に設置されている長イスに腰を下ろし、目を閉じた。
チリ、チリィ……ン
「随分、気に入ったみたいだね」
不二の声で我に返る。
目を開けると、不二の笑顔が目に入った。
別に長い時間じゃないと思うけれど、陶酔しきっていたらしい。これは少し恥ずかしい。
「だって、すっごくキレイな音じゃないですか」
「そんなに好きなんだったら、あげようか」
「え?」
そんなつもりで言ったのではないので、あっさりと言った不二に思わず聞き返す。
「夏の大会が終るまではここに吊っておこうと思ってるから、渡すのはその後になると思うけど」
「…………」
思わず黙り込む。
夏の大会が終ったら。
夏が終れば、不二はもうここには来ない。
こんな風に部室で顔を合わせることもない。
巴が不二のパートナーでいられるのも、この夏までのことだ。
そんなことはわかってはいたけれど、ついこの間まではそれはずっと先のような感覚だった。
だけど、違う。
もうその時はすぐそばまで近づいている。
そう、だから焦っているのだ。
自分にとっては初めての夏だけれど、パートナーの不二にとっては、これが中学テニス最後の夏だ。
後悔で終わらせるようなことにはしたくない。
春にテニスを始めたばかりの自分が不二の足を引っ張らないように、なんて思うのは無理があるのかもしれない。
けど、ならば今できる限りの事をして大会に挑みたい。
「あ、ゴメン。夏の終わりにあげたんじゃ意味ないかな」
巴の沈黙を別に解釈した不二の言葉に慌てて首を振る。
「いえ! 違います違います!
ちょっと考え事してただけで……」
「考え事?」
しまった、余計な事を言っちゃった。
しかし今から口を閉じても遅い。
かわりに、再び口を開く。
「不二先輩」
「なに?」
「私、先輩とミクスドペア組めて良かったです」
自分にとって最初の夏に、不二にとって最後の夏に。
不二としては本当はシングルスでの出場を望んでいたのかもしれない。
けれどこれは偽らざる自分の気持ちなので、不二に伝えておきたかった。
唐突な巴の言葉だが、不二は笑って頷いた。
「そうだね。ボクもそう思う。けど、まだ終わりじゃないよ」
「はい、まだ次の大会がありますもんね!」
目指せ全国制覇! と意気込む巴に不二が苦笑しながら首を振る。
「うん、それもあるけれど、それだけじゃなくて。
次の大会が終っても、夏が過ぎても、ずっとボクはキミのパートナーでいるつもりなんだけど」
「え、いいんですか?」
巴の質問に、首をかしげて不二が訊きかえす。
「ダメなのかな?」
次の大会が終っても、夏が過ぎても。
ずっと。
「ダメなわけないです!
私も、ずっと一緒がいいです!」
慌てて言い募ると不二がにこりと微笑んだ。
その表情はとても涼しげで、今巴と同じ空間にいるとは思えない。
風鈴の音色に似ている、と益体もない事を不意に思った。
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