「やあ、モエりん」
五月のある休日、突然巴の(正確にはリョーマの)家を訪れたのは、不二だった。
驚いた表情の巴と目が合うと、にっこりと微笑む。
つられて、巴も笑みを見せる。
「おしぶりです、不二先輩」
進学してから不二の顔を見たのは初めてだ。
不二に限らず卒業した先輩達は皆、春休みのうちは何度かテニス部に顔を出してくれていたがさすがに高校に入ってしまうとこちらに来るような余裕もなく、顔を見ることも少なくなっていた。
少し寂しいけどしょうがないか。
そう思っていた矢先の不二来訪だった。
しかもコートではなく家に。
巴の携帯番号くらい不二は知っているはずなのに、そちらには何の連絡もなかった。
「けど、急にどうしたんですか?」
不思議そうに訊ねた巴に不二は更に彼女を混乱させるような台詞を吐く。
「うん、キミを困らせようと思って」
困らせる?
不二が何を考えているのかさっぱりわからない。
「あのー、……それはどういう……?」
困惑顔を浮かべた巴の質問には答えず、不二はこう告げた。
「今から、一緒に出掛けない?」
ますます訳がわからない。
だけどなんだか不二は真剣みたいだ。
いつもと同じにこにこ顔だけど、なんとなくそう思ったので巴は乗ってみる事にする。
どうせ今日は何か特別用がある訳でもない。
「えーっと、わかりました。
じゃあ支度してきま……不二先輩?」
回れ右しようとした巴の手を不二が軽く掴む。
「良かった。じゃ、行こう」
「あの……不二先輩、話聞いてました?
支度してくるって私言ったんですけど」
「うん。けどそのままでいいから」
「だって、手ぶらですよ? 携帯だって持ってないですし!」
抗議する巴にもどこ吹く風といった調子だ。
本当に今日の不二はどうしたのか。
「手ぶらでいいじゃない。
携帯だって、何か緊急の用事が入るあてでもあるのかな?」
そう言われてしまうと別に何があると言う訳でもない。
結局諦めて巴はそのまま家を出た。
今日はいい天気だ。
どこかに出掛けるには絶好の日かもしれない。
しかし。
「……不二先輩?」
「なに?」
気づいていないんだろうか。
まさかそんな訳は無いと思うけど。
「手……握りっぱなしなんですけど」
「うん、そうだね」
巴の指摘に、にっこりと頷く。
そう返されると、なんだか振り払うわけにもいかず、結局そのまま歩く。
「…………不二先輩?」
「なに?」
しばらくして、再び巴が口を開く。
先ほどと全く同じように不二が答える。
「結局、どこに行ってるんですか?」
不二に手を引かれるままに歩いているのだけれど、目的地の見当がつかない。
とりあえず駅の方に向かっているんだろうか。
巴の質問に、不二は今度は少し考えるそぶりをする。
考えるような質問をしただろうか?
そして不二の返答は、こうだった。
「どこに行こうか、モエりん?」
「へ!? なんですか、それ?」
「君の行きたいところ、君がやりたいこと。叶えられる限りはそれに応えるよ」
つまり、目的はないということなんだろうか。
唐突に選択権を委ねられてもとっさには何も思いつかない。
やりたいこと、と言えば久しぶりに不二とテニスがしたいな、と思ったがラケットがない。
そういえばそもそも巴は手ぶらだ。
不二の口ぶりから察するに資金の要るような事は彼が負担するということなのだろうがそれも気が進まない。
考える。
考える。
考える。
「あの、目的とかなしで散歩とかでもいいですか?
私、不二先輩と話がしたいです」
せっかく久しぶりに不二に会ったのだし、何かするでなく話がしたい。
そう思った巴がそのままを口にすると、不二は「もちろん」と笑った。
結局、その日は一日不二とふたりでふらふらと青春台を歩きながら取り留めない話をした。
テニス部に入ってきた新入部員の事。
高校での青学テニス部の印象。
それそれの近況。
雑談。
久しぶりだとは言ってもせいぜい一月程度だけれど、話すことは特に探さなくても尽きないくらいあった。
途中不二が買ってくれたミニペットボトルのジュースを片手に、日が暮れるまで。
少し風が冷たくなって、日が落ちかけている事に気が付き、そして何かを思い出す。
川沿いを家路につきながら、思い出した疑問を口にする。
「そういえば……不二先輩、『困らせる』ってどういうことだったんですか?」
不二が今日巴に会いに来た目的を、結局巴はまだ聞いていない。
『キミを困らせようと思って』この言葉の意味も。
突然連れ出されたのには驚いたが、困るというほどでもない。
そもそも、巴は不二に困らされたことなんて無い。
巴にとっての不二は完璧な人で、いつも巴の意思を尊重してくれる。
たまにからかわれることは、あるけれど。
巴の言葉に、不意に不二が真顔になる。
そして、質問の答えではなく別の質問を口にした。
「……今日、どうしてキミはボクに付き合ってくれたの?
急に家に来て、理由も言わずにキミを連れ出そうとしたボクに」
「それは……」
開きかけた口を、一度閉じる。
そして、「怒らないでくださいよ?」と前置きして躊躇しながらもう一度開く。
「不二先輩が……、助けて欲しいって言ってるみたいに見えたんです。
あああ、すいません! ナマイキにも程がありますよね。そんなわけないですもんね!」
急いで否定する巴を、不二が不意に抱きすくめた。
いきなりで、頭が真っ白になる。
右手から離れたペットボトルが鈍い音を立てて地面に落ちる。
まだ中身が残っているそれが、不規則な動きで転がっていく。
「ふ、不二先輩!?」
慌てふためく巴の耳元で、小さく不二の声がする。
「まいったな……キミには、お見通しなんだ」
諦められる、そう思ってた。
しばらく会わなければ、こんな気持ちなんて忘れられる。
新しい生活に追われるうちに、思い出に出来る。
だけどたった一月で心が悲鳴をあげた。
このままじゃ、壊れそうだった。
自分でも情けないくらいに短い期間で心は限界を告げた。
だから、ボクは賭けをしたんだ。
前ぶれもなくキミを訪ねて、キミがいれば。
キミがボクに付き合ってくれれば。
キミは、ボクのこの気持ちを救ってくれるのかもしれない。
「巴」
「は、はいっ?」
困らせたくなかったから、黙っているつもりだったんだ。
だけど、それは無理だったみたいだ。
「もし、今日キミが家にいれば。
もし、キミがボクの誘いに乗ってくれれば。
もし……。
ボクは臆病だから、こうやって逃げ道をつくっていたんだけどね」
「あ、あの、すいません、さっぱり話が見えないんですけど」
途方にくれたような声を出す巴に、くすりと笑う。
逃げ場を失って困っているのが、よくわかる。
本当に逃げ場を失っているのは、自分なのだけれど。
退路を断ったのは、巴なのだけれど。
覚悟を決めて、言葉を紡ぐ。
「巴、ボクはキミの事が好きだよ」
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