「モエりん」
かけた言葉に巴が振り返る。 その拍子に長い髪がふわりとなびいた。 不二の姿を認めると、笑顔を浮かべて近づいて来る。
「不二先輩、卒業おめでとうございます!」
彼女が近くに寄って来たことで、不二はあることに気がついた。
「あれ、モエりん目が……もしかして、泣いてた?」
不二の指摘に巴はバツの悪い表情を浮かべた。 どうやら図星だったらしい。
「やっぱり目、赤いですか……? 今日で先輩たちともお別れなんだなって思ったら泣けてきて……」
そんなことことを言いながら、気恥ずかしいのか話題を変える為に目線を泳がせる。 そして、彼女もあることに気がついた。
「あれ、不二先輩……」 「何?」 「第二ボタン、あるんですか?」
てっきり誰か女の子にとられているんだろうと思い込んでいた、不二の制服のボタンは規則正しく彼の胸元を飾っている。 何だそんなことか、と言いただけな様子で不二が肯定した。
「ああ、誰にもあげていないからね」 「断ったんですか?」 「うん。欲しがっててくれた子達には悪いと思ったけど」
こういうものは特別な人にしかあげたくないからね、と続ける。 そうなんですか、と相槌を打ちながらチラリと巴が遠くに目線をやった。 誰かを探しているのが分かったけれど、不二は自分からは何も言い出さない。
桜の花はまだ開いてはいないがつぼみはふくらみかけている。
「と、ところでですね、不二先輩。 つかぬことをお伺いしますが……」
ついに巴が口を開いた。 自分に与えられた時間が終わる瞬間。 不二は、彼女の口から出るよりも早くその答えを口にする。
「手塚なら、さっきコートにいたよ」 「え、な、なんで何も言ってないのに分かるんですか?」
動転する巴ににっこりと笑顔で答える。
「モエりんを見ていれば分かるよ」
「そんなにわかりやすいのかなあ、私……」
頬を軽く染めならが、呟くようにそんなことを巴がいう。
そんなことはない。 ずっと、ずっと見ていたからわかるのだ。 ひょっとしたら彼女が手塚を見ていた時間よりもずっと、自分は巴を見ていたのだから。
「モエりん、最後にいいこと教えてあげようか」 「へ? な、なんですか?」
巴の耳元に唇を寄せると、小声でそっと囁いた。
「手塚も、第二ボタンついたままだったよ」
「……!」
一瞬のうちに赤くなったり、青くなったりした巴だったが、しばらくして落ち着くと、やはり小声で訊き返してきた。
「ホントですか?」 「ひどいな、モエりん、ボクを疑うのかい?」
わざとらしく悲しげな顔をしてみせると慌てて否定する。
「いえ、決してそういうつもりでは!」
そんな彼女の様子にくすりと笑う。
「そんなに慌てなくても。冗談だよ。 ……頑張ってね」
「はい!」
そう言うと身を翻してコートに向かって駆けていく。 やがて彼女の姿は見えなくなった。
頑張って。
なんて偽善。 真実は彼女が傷つくことを望んでいるくせに。
彼女が特別な人になりたい相手は自分じゃない。 ボクの特別な人は彼女でしかない。
今、本音をさらけだしてしまえばあるいは彼女は振り向いてくれただろうか。 少なくとも自分の想いだけは知らしめることができただろう。
ポケットから小さなハサミをとりだすと、不二は制服とボタンを繋いでいた細い糸を断ち切った。 まずは第二ボタン。 そしてあとは上から順に。
手の中に残った数個のボタン。 本当の自分をさらけ出せば、手に入ったかもしれない未来。
それが出来なかった。 何をしてでも、手に入れたいとは思えなかった。 だから、きっとこの想いは恋じゃない。
手に持ったボタンをゴミ箱に捨てる。 ボタン同士が当たった軽い音が耳に届く。
チャリン
こうして偽善に欺瞞を重ね、彼は想いを閉じ込めた。
そう、これはきっと恋じゃない。
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