雨が傘をたたく。
アスファルトはとっくに水浸しで、歩くたびに水が跳ね、ズボンの裾を不快に濡らす。
そろそろシューズの先からも水が浸入してきた気がする。
そしてこのまとわりつく湿気。
しかし、そんなことより。
荒井は視線だけを横にやる。
巴が荒井と同じ歩調で歩いている。すぐ横、というより同じ傘の下で。
なんでこんな状況になっているのか。
下校時刻が近づいた頃になって本格的に降り出した雨はやむ気配を見せず、結局今日の部活は軽いミーティングのみで休みという事になった。
軽い筋トレ程度で皆帰宅していく。
荒井も同様に下校しようとしたのだが、靴を履きかえ、傘を手に取ろうとした時点であることに気が付いた。
傘が、ない。
今朝適当に傘立てに放り込んだそれが見当たらない。
部活のない生徒はもう帰宅しているので傘立てに残っている傘は大して多くはない。
それでも見落としがあるのかもしれない、と自分の傘を探していると、背後から声をかけられた。
「何してるんですか、荒井先輩」
巴だ。
下校準備を済ませた状態の彼女は今まさに傘を開いて外に出ようとしたときに傘立てをひっくり返さんばかりの勢いの荒井に気が付いたらしい。
「傘がねえんだよ」
「持ってきてなかった、とかではないんですよね」
「んなわけあるか。持ってきてたっつーの」
疑わしげな顔をする巴に抗弁する。
朝は確かに降るか降らないかといった微妙な天気ではあったが家を出た瞬間に降っていたので傘を持って来た。
しかし、どう探してもやはり今は見つからない。
大方傘を持ってこなかった誰かや傘を壊してしまった誰かが適当に誰かの傘を持って帰ってしまったのだろう。
運悪くそれに荒井が当たってしまったという事だ。
「クッソ……」
腹立ちまぎれに傘立てを蹴る。
鉄製の重い傘立ては軽くその位置を変えただけだった。
これはもう濡れて帰るしかないか。
そう思っていた荒井に巴が予想外の言葉を書けたのはその時だった。
「……入ります?」
「…………は?」
言葉の意味を理解できず、間抜けな声が出た。
そんな荒井に苛立たしげに巴は言葉を繰り返す。
「だから、傘に入っていきますかって言ってるんですよ」
「……別にいいっての。走って帰りゃいいんだし」
「意地張ってないで入ればいいじゃないですか。夏風邪はバカが引くんですよ」
「誰がバカだ。うっせーよ」
相変わらず巴は辛辣だ。
これ以上彼女に弱みを見せたくないので突っぱねていた荒井だったが、結局のところ今こうやって一緒に帰宅する羽目になっているのである。
いつもこうだ。
最終的には彼女に敵わない。
にしても、落ち着かない。
一番の原因はわかりきっている。
すぐ横、肩が触れるほどの距離に巴がいるせいだ。
彼女の持っていた傘は大きめではあったけれど、当然紳士用の傘ほど大きくない。
二人の人間が入るには小さすぎる。
相合傘なんて普通付き合ってる奴ら限定だろ。
現にさっき池田が意味ありげにこっち見て足早に去って行った。
明らかに誤解してるだろうと思うと明日が憂鬱だ。
「傘、こっちに寄ってません?」
不意に巴が口を開いてこちらを見た。
巴の傘だが、持っているのは荒井だ。身長の都合である。
にしてもバレないように寄せていたつもりだったけれど気が付かれたか。
「いいだろ。お前の傘なんだから」
「ダメですよ。公平に五分五分にしてください。荒井先輩だって一応今はレギュラーなんですから」
一応。今は。
真実ではあるがいちいち余計だ。
「今年も全国に行かなきゃいけないんですから、今風邪とか引かれたら困るんですよ。頑張らないとダメな時期なのに」
「わかってるっつーの……てか、俺も俺なりに頑張ってるっての」
ぼやきつつも巴がいつもの調子で話すのにほっとする。
微妙なすわりの悪さは巴が常になく無口な事にもあったのだと気が付いた。
別にののしられる趣味はないけれど巴がいつもと違っておとなしいと調子が狂う。
と、巴がぽつりとつぶやくように口を開いた。
「知ってますよ」
「ん?」
「私だって、わかってますよ。荒井先輩が頑張ってることくらい。……だから、今度はちゃんと一緒に全国に行きたいんじゃないですか……」
驚いて巴の方を見る。
微かに頬が赤いのは湿気のせいか。
長い睫毛がこの距離だとよく見える。
あれ。
なんだ。
赤月ってこんなかわいい顔してたっけ。
いや違う気のせいだ気のせいだ気のせいだ。
慌てて視線を前に戻す。
「あー、ん、わかってんならいいんだよ」
気まずい空気が流れた。
だから、巴がいつもと違うと調子が狂う。
「…………」
「…………」
傘に当たる雨粒の音、ぴしゃりぴしゃりという水を跳ね上げる足音だけがやけに大きく響いて聞こえる。
「……もうここでいいわ。家、すぐそこだし」
「本当ですか?」
「嘘なんかついてねえっつーの」
家の真ん前まで巴に送ってもらうというのも抵抗があったので適当なところで荒井は足を止める。
実際ここからなら家は近い。走ればさほど濡れることもないだろう。
「んじゃ、ありがとな」
傘を巴に手渡す。
巴は一瞬何か言いたげな顔をしたが、黙って傘を受け取った。
一歩足を踏み出す。
途端、細かい雨粒が顔を濡らした。
そのまま数歩、歩いたところで荒井は足を止めて振り返る。
「赤月、全国行こうな」
巴は少し驚いたような表情を見せた後、笑顔を見せた。
「はい! 絶対ですよ!」
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