耳に目覚まし時計のベルの音が響く。
荒井は布団から腕だけを伸ばすと目覚まし時計を止め、しかし再びその腕を布団の中に引っ込める。
今朝も寒い。
眠いのも辛いがそれよりもこの冷気が辛い。
なかなか布団から出ていく踏ん切りがつかない。
目覚ましのアラームは余裕をもって設定している。だからまだ五分十分は大丈夫のはず……。
そこで意識は少し途絶える。
次に気が付いた時には時計の針はかなり先に進んでいた。
現在時刻を認識すると同時に一気に目が覚める。
「やっべええぇぇぇ!」
跳ね起きるとそのまま大慌てで登校の準備をする。
定刻を過ぎても起こしてくれなかった親を逆恨みしつつ、超速で朝食をかきこむと通学用の鞄を掴んで家を飛び出す。
ちなみに鞄の中には勉学用具などほとんど入ってはいない。
教科書ノートは試験前以外は基本学校に置きっぱなしだ。
中に入っているのはタオルやジャージ、つまり部活用のものが大半である。
家を飛び出してすぐに肌を刺す冷気で防寒着を着ていない事に気が付いたが、一度家の中に戻って箪笥を開け、コートを取り出す時間も今は惜しい。
どうせダッシュで登校する羽目になっているのだから、上着など不要なくらいに暑くなるだろう。
そう判断してそのまま駆けだした。
実際のところ、彼が家を出た時間はそう遅いわけではない。
遅刻することはまずない。――それが授業に、という事であれば。
彼が今向かっているのは学舎ではなくテニスコートだ。
始業前の朝練は別に義務付けられているわけではないが二学期が始まってからこっち禁止されている試験前を除けば荒井は一日も欠かしたことはない。
今も鞄の中に入っているジャージ、それは夏まで着ていた学校指定ジャージではなくレギュラーのみが着ることのできる特別なジャージだ。
9月のランキング戦でついにこのジャージを手渡された時の感動は半端なかった。
同時に青学の、全国一へとのし上がった強豪チームの後を託されたのだという重責。そのプレッシャーも半端なかった。
のうのうとしていたらすぐに誰かに追い抜かれる。それが嫌ならば練習しかないのだ。
レギュラー落ちなんて格好悪いところは絶対に、見せられない。できればもうアイツに自分の負ける姿なんて見られたくない。
「おはようございまーす。荒井先輩、今日はついに脱落したのかと思いましたけど違ったんですね」
息を切らしてテニスコートにたどり着くと、そんな声がかけられる。
もちろん、巴だ。
意地でも朝の自主練習を休めないのはこの一年女子に何を言われるかわからないというのもある。
「休むかよ」
「意外と頑張りますねえ」
とことん信用がない。
三年が引退する前からミクスドのレギュラーの座にいる彼女もまた朝練を休んだことがない。
このままじゃあいつまで経っても勝ち目がない気がして少しくらいサボれ、と内心思っていることは秘密だ。
「意外とってなんだ意外とって」
「言葉どおりの意味ですけど?」
「お前な、仮にも俺は先輩だぞ! もう少し敬意ってもんを持てよ!」
荒井の言葉に巴は舌を出す。
本当に小憎たらしい。
「言っておきますけどね、他の先輩に対してはちゃんと敬意を払ってるつもりですよ?」
「だから尚更ハラ立つんだろうが!」
「あー、先輩と無駄話してたらせっかくの朝練の時間がもったいないですね。
汗すごいから拭いといた方がいいですよ。一応先輩もとりあえず今のところは青学のレギュラーなんですし」
「一言どころじゃなく余計なんだよお前は!」
怒鳴りつけると笑いながら巴は練習に戻る。
なめられているとしか言いようがないが、言い争っている時間がもったいないのは事実だ。
荒井もすぐにラケットを手にコートに入った。
走れば上着はさほど必要ないだろうという予想は当たっていた。
ただし、それは朝の話である。
部活終了後、制服に着替えて更衣室を出ると容赦ない北風が荒井の身体を嬲る。
思わず体を縮こまらせたが、学ランにシャツ一枚では防ぎようもない。
日もすっかり暮れている今の寒さは朝よりさらに堪えた。
「なんだ荒井、まさか上着ねぇのか」
そう言ってくる池田は暖かそうな丈の長いコートにマフラー、手袋と完全防寒である。羨ましい。
もちろん昨日の荒井も同様の格好であったのだが。
「……寝坊したからつい忘れたんだよ」
「普通コート忘れるかぁ?」
呆れたように言われてもそれが事実なのだからしょうがない。
朝と同じように走るしかないか、そう思っていたその時背後から別の声がかけられる。
「えー、荒井先輩上着忘れてきたんですか!? この寒いのにバカじゃないですか」
振り返ると、わかってはいたがそこにいるのは巴である。
隣で小鷹もいかにも寒そうな表情でこちらを見ている。
「うっわ、本当、荒井先輩寒そう……」
「うるせぇな。関係ねぇだろ」
「ホントバカじゃないんですか! 風邪でも引いたらどうするんですか!」
「バカバカうるせぇぞ赤月!」
「だってあまりにも先輩がバカだからつい口から出ちゃうんですよ。仕方ないですねえ、これ貸してあげますよ」
そう言うと、首に巻いていたマフラーを外して荒井に差し出す。
毛糸の暖かそうなマフラーだ。
「いらねえよ。お前に借りなんか作るか」
「だからバカだって言われるんですよ。
いいですか、今朝も言いましたが荒井先輩は一応かろうじてうちのレギュラーなんですから風邪でも引かれたら困るんです!
心配しなくてもこの程度のことで恩になんて着せませんよ。大体荒井先輩に貸し作ったってなんの得にもならないし」
言葉と同時に投げつけるようにマフラーが飛んできた。
慌てて受け取ると、もう一言余計なセリフが付け加えられる。
「あ、返す時はちゃんとファブリーズしといてくださいねー」
「洗って返してやらぁ!」
「やですよ、そのマフラー気に入ってるんですから、荒井先輩が洗ったら縮みそう」
笑顔でそういうと、「お疲れ様でしたー」と足早に反対方向へ去っていく。
マフラーを一度受け取ってしまった以上追いかけて突っ返すわけにもいかず、結局そのマフラーを首にかける。
相変わらず全身寒くはあるが、首元の風が遮断されるだけでも大分マシだ。
よく見るとポケットまでついているので手を入れると手先も暖かい。
「お前も素直に礼言って受け取りゃいいのに」
「んな事言ったら付け上がられる一方だろが」
「一緒だろ。大体こんな寒ぃ日にマフラーだけでも貸してくれたんだから感謝しろよ」
「……フン」
「モエりんも素直じゃないなぁ」
「何が?」
「風邪ひいたら心配だから、って渡せばいいのにあんな憎まれ口叩いちゃって」
「憎まれ口じゃなくて事実だもん」
「はいはい」
あやすように言う那美に巴はこれ以上の反論をしても無駄だと判断して口を閉じる。
言葉の代わりに吐いた息は、夜の冷気の中で白くなっていた。
|