あいにくと好天とは言いがたい曇天の中行われた関東大会、その一回戦。 好カードなどまだまだ望めない筈のその序盤戦に、ひときわ話題を呼んだ試合がひとつ。 都大会でまさかの敗退を喫し、シード権を失った氷帝と、青学の試合。 共に優勝候補の一角と目されているだけあって一回戦とは思えぬほどの観客がこの試合には詰め掛けていた。 その人込みの中に紛れ、観月はいた。 幸い、この時間に聖ルドルフの試合はない。 どちらが勝ち残るにせよ、この試合のデータは収集しておいて損はない。そう判断して単独で観戦に来たというわけだ。 今、コートで繰り広げられている試合はミクスド2。 対戦しているのは氷帝の鳥取樺地ペアと、青学の一年生ペア、赤月巴と越前リョーマのペアだ。 ミクスド自体が公式に導入されたのが最近な事もあり、各校強豪校といえどもミクスドに関しては選手層が薄いのが現状だ。 そんな中、氷帝はシングルスでも十分に実績を残している二人を敢えてミクスドに登録させている。 部員の豊富な氷帝らしいと言えばらしい、贅沢な起用である。 ミクスド3もまた実力の確かな選手を起用し、青学に一歩リードをしてのミクスド2。 注目されている青学のルーキー、小鷹のいるミクスド1に持ち込む前に試合を終わらせようと言う腹なのだろう。 これは青学の明らかなオーダーミスだ。 その意見には遺憾ながら観月も賛成だ。 実際問題、地区大会から頭角を表し注目を浴びている越前はともかく、そのパートナーである巴はまったくの無名。 そのプレイを見ていても未熟な面が目に付く。 観衆の多くは、この試合でミクスドの結果は出る、そう見ているようだ。 氷帝の勝利、という結果が出ると。 双方の選手のデータを照合する限り、その予測は正しい。 あの氷帝の中でも突出した実力を持つ二人に対し、どうしてもネックになるのはやはり巴だ。 もっとも、彼女のプレイを見てテニスの腕がまだまだ未熟だと言うことは分かっても、まさかテニスを始めてから半年も経っていないとまでは誰も思わないだろうが。 経歴が浅いので妙な癖がつくこともなく、基本に忠実な、きれいなストローク。 しかし、基本通りが必ずしも最良とも限らない。 癖がないと言うことは却って球筋を読みやすいということでもある。 それにしても。 観月は内心、首を傾げた。 大方の予想通りの一方的な展開を想定するほどは観月は巴に関して過小評価はしていなかったが、ここまで接戦を強いられるほど鳥取と樺地のレベルは低くない筈だ。 確かに越前の実力は確かだがことダブルスとなると問題点が多く、巴に至っては成長著しいとは言っても今のレベルは彼らに比肩するほどではない。 しかも、巴の様子がいつもと違った。表情が硬い。 緊張、ともまた違う何か苦いものを飲み込んだような表情でプレイを続けている。 その原因が何かに気がつくのに、そう時間はかからなかった。 二つの疑問の答えは同じ。 鳥取の腕、いや、手首か。 うまくごまかしてはいるが、さすがに利き腕を故障した状態で茶を濁せるほど相手は甘くない。 そして、おそらく巴はその事実を知っている。 だからこそ、らしくもなく辛そうな表情でテニスをしているのだ。 日ごろはテニスが大好きだと、笑顔でスクールに来る彼女が。 厳しい練習の時でも見せた事がない顔をみせて。 結局、試合は氷帝ペアの棄権という形で幕を閉じた。 小鷹に対抗できる選手が鳥取以外にいるわけもない。 ミクスドは青学が勝利した。 巴が気がつかなければそれはそれで別にかまわない。 そんな思いで特に声をかけることもなくその場にいた観月と、巴の目があった。 観月の姿を認めた巴が駆け寄って来る。 ちなみに、これが試合前だと例え目が合おうと巴は気がつかない。 それだけ集中しているという事だ。 「観月さん」 巴にいつもの元気はない。 「お疲れ様でした、巴くん」 とりあえず通り一遍の言葉をかける観月に巴が微笑む。 「はい、これでなんとか2回戦進出です」 作り笑いの巴に、観月が何事か言わんと口を開きかけた。 と、腕に水滴が当たる。 雨だ。巴の試合が終わるのを待っていたかのように、雨粒はたちまち大粒になり、その勢いを強めた。 「……いけませんね。巴くん、こちらへ」 観月が巴の手を引いて駆け込んだ東屋は、位置が微妙だった為か彼らの他には誰もいなかった。 ザア…… 屋根をたたく雨の音が響く。 この雨足では当分動けそうにない。 観念してベンチに腰掛けると、観月は先ほど言いかけた言葉を唇に上らせる。 「巴くん、突然こんな事を言うのも何かとは思いますが、ボクは幸か不幸か他校の人間です。 だから、青学の人間の前では言えないような事も、ボクには言ってくれてかまいません。 ……さっきの試合を、本当はどう感じていたのかも」 観月の言葉に、巴がびくりとする。 しばらくの沈黙。 雨の音だけが二人の間に響き渡る。 そしてその間、観月は目を逸らす事なく巴を見つめていた。 「本当は……本当は、悔しいです。 万全の状態の鳥取さんと試合したかったです」 「それで、負ける事になっても?」 静かな観月の問いに巴は黙って頷く。 正当な実力差では到底勝てない。 ミクスド3が敗北していた状態のあの時、巴のペアが負ける事はそのまま青学の敗北を意味する。 それでも。 それでもなお巴はそれを求めた。 団体戦の選手としとは持ってはいけない、青学の選手の前では絶対に口にしてはいけない思い。 しかし、それはただ勝ち負けという結果だけを重視する自分に比べてあまりに真っ直ぐだ。 「心残りですか。 自分が勝者だという事実に納得がいかない」 観月の問いに、再び頷く。 「ならば、勝ちなさい」 「……え?」 言われた言葉の意味を掴めず、きょとんとした顔を見せる。 「これから後の試合、もちろん関東だけでなく全国まで、総ての試合に勝ちなさい。 そうする事によって先ほどの試合の価値は変わります」 今日の、先ほどの試合が事実上の決勝だったのだと。 馬鹿げた発言だ。 あまりに夢物語に過ぎる。 確かに一試合ごとに目を見張るほどの成長を遂げる彼女ではあるが、だからと言って頂点に立てるとまでは予想し難い。 大体、他校の選手である彼女を発奮させてどうする。 自分が言った『総ての試合』には当然聖ルドルフの試合も含まれているだろうに。 巴にとっても、こんな発言は無謀にすぎると呆れるか、ふざけるなと怒り出して当然だ。 しかし、観月を見据え、巴は言い切った。 「はい、勝ちます!」 誰かがこの台詞を聞いたら、無謀と笑うだろう。 分不相応の望みを抱いていると。 そう思いつつも、観月は見てみたかった。 巴の思いが達成されるその時を。 そしてそれを可能と思わせる程に、巴の瞳は強い意志を感じさせた。 しかし、結局のところ自分に出来る事は本当に僅かでしかない。 今こうして彼女にもっともらしい事を話していても、実際に試合が始まってしまえば彼には何も出来ない。 試合中にアドバイスをする事も、 コートで、一番近い場所で彼女を支える事も。 それは全部、自分の仕事ではなく、彼女のパートナーの役割だ。 そんな、分かりきった当たり前の事に、何故か初めて観月は胸の痛みを覚えた。 雨は降り続いている。 この分では残りの試合は順延と言うことになるだろう。 彼女にとって区切りをつけるには、ちょうどいい恵みの雨だ。 勢いよく降る雨は、観月のとまどいを押し流すように、まだ、降り続いている。 |