「六角中はいいですねえ、すぐそばに海があって」
大きく腕を伸ばして深呼吸すると、そんなことを巴が言う。 佐伯にとって海は常に身近にあるものなのでピンと来ないが、それでも彼女が潮の香りを嫌わないでいてくれるのが嬉しい。
「トモエは海が好きなんだ?」
佐伯の言葉に、巴が照れたような笑顔で返す。
「はい。 ……なんて言っても、実はあんまり知らないんですけどね。 実は私、去年まで海を見たことがなかったんでずっと憧れてたんです」
意外な言葉。 そういえば山育ちだと以前言っていたっけ。 と、そこまではいつもどおりのなんでもない会話だった。
巴が次の台詞を吐くまでは。
「だから、去年の夏に不二先輩に連れて行ってもらったのがはじめてだったんです」
「不二?」
なんで不二が?
やっぱり初めて海を見たときには感動したとか、知識としては知っていたけど海水がしょっぱいのが不思議だったとか、巴はまだはじめての時の海の話を続けているが、佐伯の相槌はなかば上の空である。
去年は巴と自分は出会ってもいなかったのだし、彼女を誰がどこに連れて行こうが、それはしょうがない。 だけど、それが彼女にとってはじめての海、と言うことになると複雑な感情がつきまとう。
しかも不二と。 自分の知っている、自分ではない男と。
あと1年、早く出会っていたらその役目は自分のものだったかもしれないのに。
自認したくはないが間違いなくこれは嫉妬の感情だ。
1年も前の話に、馬鹿馬鹿しいとは思う。 だけどこれがもっとずっと前の話ならともかく、ほんの1年前なのだ。 はじめて海に行った思い出は何十年たってもずっと彼女の記憶に残るんだろう。 連れて行ってくれた相手のことも同様に。 今、こうして海の傍を二人で歩いている事は、同じようにずっと覚えていてくれているだろうか? なんでもない休日としてあっという間に記憶にうずもれてしまったりしないだろうか。
いっそこれが自分に妬かせる為の彼女の作戦なんだったらいいのに。 だけど彼女はそんなかけひきが出来るほど器用じゃないと自分が一番よく知ってる。
「……さん? サエさーん?」
我に返ると、巴が下から自分を覗き込んで怪訝な顔をしている。 いつのまにか自分の思考の中に入り込んでしまっていたらしい。
「あ、ゴメン」 「どうかしました? 急に黙り込んじゃいましたけど?」
普段ならどんな話でも熱心に聴いてくれる佐伯だけに、話を聞いてくれないと怒るよりも心配が先にたっているらしい巴。
「トモエ、夏になったら、また海に来よう」 「はい」 「秋も、冬だっていい。 また、何度でもキミを連れて行くよ。約束だ」 「? ……はい、約束ですね?」
突然どうして佐伯がそんなことを言い出したのかわからないままに笑顔で返事をする巴に、佐伯もまた笑顔を返して巴の手を握ると、歩き出す。 巴が佐伯に取られた手に目線を移し、また佐伯の顔に視線を戻す。 もう一度佐伯が笑顔を返すと、慌てて目線を落とす。彼女の頬が赤い。
「トモエ」 「は、はい?」 「これから先、トモエを海に連れて行くのは俺だけだよ?」
時計を戻す事は出来ないんだから、だったらそう。 未来は全部、これからの彼女の海は全部俺絡みにしてしまおう。 彼女が忘れるどころか、思い出にする間もないくらいに。
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