「ね、見て見て!」
昼休み、食べ終わったお弁当を早々に片付けた朋香がカバンから取り出したのは、シンプルにラッピングされた小さな箱だった。
中身はその場にいる全員が知っている。
「あ、そっか。今日バレンタインデーだったね」
食後のお茶を飲みながら那美が言う。
確かにそれは先日の週末に皆と買いに行ったチョコレートだ。
渡す相手なんて聞くまでもない。
「リョーマ様、受け取ってくれるかなぁ……あ、そういやアンタは持ってきたの?」
「え、私?」
いきなり話の矛先が回ってきて巴は危うく口に入れたばかりのリンゴを丸飲みしそうになる。
「アンタも先週、チョコ買ってたじゃない。
ねえねえ、誰に渡すのよ?」
目を白黒させたままの巴に詰め寄るが、巴はそれどころではない。
むせかえりながら桜乃の入れてくれたお茶でなんとか落ち着かせる。
「ちょ、ちょっと待って」
「モエりんは持って来てないでしょ。今日じゃなくて週末渡すんじゃないの?」
やっと落ち着いたと思ったのに、那美の言葉に今度はお茶が気管に入ってしまい盛大にむせかえった。
「だ、大丈夫?」
「……う、うん、なんとか」
心配してくれるのは桜乃だけだ。
那美は忙しそうだね、と涼しい顔で、朋香はたった今入手した最新情報に夢中である。
「えーっ? 巴、アンタの好きな人って他校の人なの?
誰、誰よ。教えなさいってば!」
「と、朋ちゃん声が大きい」
教室の他の生徒を気にして桜乃が控えめに制止する。
もっとも、この一角が騒がしいのは今に始まったことじゃない。
周囲も慣れたものである。
「で、誰なのよ」
それでも一応少しは声のトーンを落として朋香が再度訊ねる。
「誰も何も、那美ちゃんが勝手に言い出しただけで私は別に……チョコだって、その場の勢いでつい買っちゃっただけだし」
「えー、そうなの?
私は絶対にそうだと思ったんだけど」
尚も言い募る那美を軽く睨んで黙らせる。
ウソじゃない。
渡すなんて考えてなかった。
……ただ、那美の言葉で頭に浮かんだ顔は、先日買ったチョコレートを見て一番に思い浮かべたのと同じ顔だった。
渡すなんて無理だ。
絶対にそれはない。
これがまだ都内の中学ならそれもアリかもしれないけれど神奈川では。
なんのついでもない。
学校帰りに寄れる距離でもない。
そんなところまでチョコレートを渡しにいくってことは本命チョコだと宣言しているようなもので。
……ないないない。やっぱり絶対ない。
渡す状況をシュミレートすらできない。
やっぱり自分で食べよう。
そもそもどこまでも自分の好みで買ったチョコだ。それも悪くない。
と、思っていたんだけど。
「やあ、練習、お疲れ様」
「え」
部活を終えて、さあ帰ろうと校門を抜けると、そこにいたのは幸村だった。
一瞬見間違いかと思ったけれど、そんなわけはない。
後ろを振り返ると、当然ながら見えるのは青春学園。
前を向くと、こちらを見ながら微笑んでいる幸村。
あれ、なんで。
今日は平日だし、ここは青春台だし。
幸村さんが、いるはずないんだけど。
混乱しつつある巴を見ながら幸村はくすくすと笑っている。
「驚かせちゃったかな。
俺は三年だからもちろん部活はもうないし、同じ関東なんだからそれほど長旅をしてきたわけでもないんだけど」
それはそうかもしれないが、繰り返すが今日は平日である。
放課後にちょっと寄るには遠すぎる。
「あの、誰かに用事ですか?」
「ああ、そうだよ」
なんだ、そういうことか。
部長か竜崎先生か。どちらもまだ校内にいたはずだ。
「じゃあ、私案内しますね。誰に用事ですか?」
尋ねた巴に幸村はにこりと笑う。
この笑顔は、本当に読めない。
「違うよ。俺は君に会いに来たんだから、案内してもらう必要はないよ」
「私……ですか?」
「そう、君」
自らを指差して言う巴に、幸村が頷く。
「今日はバレンタインだから巴からチョコレートが欲しいな、と思って」
「…………は?」
ちょっと待ってちょっと待ってちょっと待って。
状況が理解できていないんですけど。
混乱した頭を必死で整頓する巴を、幸村はとても楽しそうに眺めている。
「え、えっと、つまり幸村さんは、今日チョコを私にもらうために、わざわざここまで来たって訳ですか?」
「うん、そう」
さらりといわれた言葉を、勢いでつい反復してしまったがためにその意味に気が付いて頭に血が上る。
ちょっと待って。
今なんだか当然のように流されたけど、チョコが欲しいってことは、そういうことじゃないの?
軽く肯定されると、本気なのかからかわれているのかわからなくなる。
「……あの、当日にいきなりなんの予告もなしにやってきてもあるわけない、とか思いませんか?」
「そうだね」
「そ、『そうだね』じゃないですよ!」
やっぱりからかわれているんだろうか。
はるばる神奈川からその為に来たのだとしたら変わり者もいいところだ。
どうも幸村と言う人物は底が深すぎて、いつも巴は一人右往左往してしまう。
それが、とても悔しい。
一度くらいは心底動揺した幸村を見てみたい、とそう思ってしまうのも無理ないんじゃないだろうか。
そんなことを思いながら巴が頬をふくらませると、苦笑気味に幸村が口を開く。
「だって、今日は女の子の日だろう?
男の俺は待っているしかできないかな、って今日までは思っていたんだけど。
でも、君から連絡なんてもらえそうもなかったし、待っているだけじゃきっと欲しい物は手に入らない」
だから自分で動くことにした。
バレンタインデーは女の子がチョコレートを渡して想いを伝えることのできる日。
けどその逆だって、いいんじゃないかと思って。
チョコレートを、想いが欲しいと伝えることもいいんじゃないかって。
「だから、もらえるかどうかと言うことはそれほど重要じゃないんだ」
そういって幸村は笑う。
本当にこの人はずるい。
控えめそうなオブラートにくるんだ積極的行動。
巴が敵う筈もない。
「…………重要じゃないなんて言うんなら、渡しませんよ」
「え?」
ごそごそとカバンの中に手を入れて、小さな包みを取り出す。
ラッピングされた小さな箱。
リボンの間にはメッセージカード。
カードに書かれた名前。
「え」
「何度も聞き返すの、ナシです!
ついでに言うと、なんで今持っているのとか聞くのもナシです!」
渡せそうもないし、渡す機会もないと思いながら、ずっと持ち歩いていたチョコレート。
カードも、自分の胸のうちにだけ仕舞っておくつもりだったのに。
まさか当日に本人が取りに来るなんて予想もしていなかったのに。
これじゃあ、示し合わせていたみたいだ。
「ありがとう」
本人の言葉どおり期待はしていなかったんだろう。
驚いた表情のあと、本当に嬉しそうな笑顔で幸村はそれを受け取った。
顔が熱い。
っていうか全身熱を持ったみたいに熱い。
今は真冬だっていうのに。
「これって以心伝心って奴かな」
「……どっちかっていうと、私は幸村さんの手のひらで踊らされた、って気がしますけど」
「そんなことないよ」
いつも、君に振り回されているのは俺だよ、と幸村は言う。
絶対ウソですよ、と巴が言う。
そうして、二人顔を見合わせて笑うと肩を並べて歩き出した。
日の暮れ始めた町を。
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