立海の真田さんは、部長じゃなくて本当は副部長らしい。
あんなに怖そうで、偉そうなのに。
じゃあ、真田さんより更に上にいる立海の部長ってどんなに怖い人なんだろう?
そう言うと、那美ちゃんに笑われた。
「モエりん、部長だからって怖い人とは限らないじゃない。山吹の部長みたいに」
それはもっともだ。
つい自分たちの部長と照らし合わせて考えてしまう。
「でもさ、少なくとも部長を勤めるだけの人望はあったんだよね」
部長不在の今でも真田がしっかりとまとめているように見えるのだが、だからこそ尚更部長がどんな人物なのかが気にかかる。
「そんなに気になるなら、乾先輩にでも聞いてみたら?」
所詮何も知らない二人だ。
話していても堂々巡りになるだけである。
那美の提案に、巴は即立ち上がった。
「立海の部長? 幸村靖市の何を知りたいんだ」
唐突な巴の質問に、乾が怪訝な表情を見せる。
いきなりやってきて開口一番『立海の部長について教えてください!』なのだから当然だ。
「あ、幸村って名前なんですね」
「そこからか」
多少呆れつつもさすがというかすらすらとパーソナルデータを披露する。
「身長175cm、体重61kg。右利き。
基本的情報としてはこんなものだが、質問は?」
「強いんですか?」
やはり一番気になるのはそこである。
弱い筈はないとは思うのだけど。
その質問に、乾の声音が若干変わった。
「強いよ。立海で一番。
……いや、強かった、と言うべきか」
「今は、強くないんですか?」
あとから考えればこれは迂闊な質問だった。
立海の部長が不在、という事実を考えれば乾の言わんとするところがすぐにわかっただろうに。
「わからない。手術は成功して現在はリハビリ中との話だが」
簡潔な言葉であったが、巴もまがりなりにもスポーツドクターを目指す身だ。
その意味と重要性はよくわかった。
「そう……なんですか」
「まあ、リハビリは順調らしいがな」
しかし、それでは立海の部長のテニスは見ることが出来ないという事だ。
復調したとしてもそれが以前と同じ実力であるとは限らない。
むしろ低下していると考えるのが自然だろう。
少し寂しく、とても残念だった。
そんな事があったのが数週間前。
今、巴は大きい紙封筒を抱えてとある総合病院内を疾走していた。
無論廊下、しかも病院内を走るのがよくない事は十二分に承知していたのだが、気が急いていたため我知らず早足になっていた。
誰にもぶつからなければまだよかったのだが、当然のように、曲がり角でぶつかった。
「あいたっ」
「きゃっ! あああああ、すいません!」
ぶつかってはじめて自分が小走りになっていた事に気づき、巴は蒼白になった。
しかも、相手はパジャマ姿だ。その意味するところは明白である。
「すいません、すいません! 大丈夫ですか?」
早口に謝りながら慌てて駆け寄ると、巴の慌てっぷりがおかしかったのか、苦笑しながら相手がゆっくりと立ち上がる。
男だ。
「いや、大丈夫。けど危ないから病院の中では走らない方がいいよ」
「はい……」
当たり前の事を注意される羽目になり、赤面する。
と、うつむいた巴の目に見慣れたもの、テニスのラケットが映った。
驚いて顔をあげ、この時はじめて巴は相手の顔を見た。
少し長めの、ゆるくウェーブがかかった髪。
優しげな表情。
年齢は巴より少し上、といったところだろうか。
「どうかした?」
「あ、いえ……テニスされるんですか?」
病院という施設内にはあまり似つかわしくないものである。
「ああ、うん。
……今はこれをまともに振れるようにリハビリ中なんだ。
今もリハ室に行くところ。
君は? なんだか急いでいたみたいだけれど」
彼の一言で傍らの書類の存在を思い出した。
至急、と命じられていたそれの存在を。
「ああっ! そうでした!
すいませんお先に失礼……あれ、今リハビリ室に行かれるって言ってました?」
「うん。君の用事もそこ?
だとしたら反対方向だよ。……良かったら一緒に行こうか」
「返す返す、すいません……」
共に歩き出す。
誰かと一緒の方がまた走ってしまわなくていい。
リハビリ中、という事で少し気を使ったが割合足取りもしっかりしていて健常者と変わらない。
と、いう事はリハビリはスポーツ選手としてのレベルの話なのだろう。
「ひょっとして君もテニスをしているのかな?」
「はい。今年始めたばっかりですけど。
……私の知り合いもこの間手首を傷めて、今治療中なんです」
そういうと、少し寂くなった。
全国大会、多分鳥取は間に合わない。
彼女と再戦出来るのはいつだろう。
いけないいけない、落ち込んじゃダメだ。
無理に話題を転換させるべくした巴がそれを口にしたのは、何か予感があったからなのかもしれない。
「あ、テニスやってるんでしたら立海大附属中学って知ってます?」
「え、ああ」
「あそこの部長さんも今リハビリ中らしいんですけど、すごく強いんですって。
どんなテニスをするのか、私見てみたくって。
復帰してくれるのを楽しみにしているんです、私」
隣の彼が、少し妙な顔をした。
巴はその理由を尋ねようとしたが、そこで時間切れだった。
巴が何か言おうとした事を気づいていながら敢えて、というように見事なタイミングで「はい、到着」と言われたのだ。
目の前にはいつの間にか『リハビリテーションルーム』と書かれた扉があった。
「あ、はい……」
「急いでたんだろ?」
扉を開きながら言われたその台詞にかぶって、大きな声が巴に向かってきた。
「お、巴! こっちだこっち」
その声があまりに大きく恥ずかしかったので、巴はお礼もそこそこに慌てて頭を下げると、手を振っている京四郎のところへと駆け寄っていった。
「はっはっは、悪いな、巴」
悪びれず書類を受け取る京四郎に巴が少し頬を膨らませながら答える。
「本当だよ。
前日におじさんと飲み会なんてするから大事な資料忘れたりするんでしょ。
わざわざ東京まで来ないで直接こっち行けば良かったのに」
「冷たいなぁ巴。
せっかくだから顔を見せてやろうという親心がわからんか」
「飲みたかっただけでしょ。迷惑かけといて……あ」
そう言えば名前も聞かなかった。
それに思い至って振り返ったが当然もう姿はない。
リハビリルーム内の個室を逐一覗きこむのもためらわれて、結局あきらめざるを得なかった。
穏やかな、でも意志の強そうな人だった。
彼はどんなテニスをするんだろう?
なぜかまったく想像が出来ない。
この病院に来る事なんて、多分もうない。
彼と会う事もないだろう。
テニスをしている同士なのだからひょっとしたら、試合で会うかもしれない。
いやそれこそ砂粒ほどの確率だ。
だけど、砂粒ほどの確率でも、また会えればいいな、と、そう思った。
「見覚えのない先生がいますね」
「ああ、赤月先生ね。うちの先生との共同研究を行ってる関係でいらしたのよ」
にぎやかな親子を一瞥して、苦笑しながら看護士が答える。
下の名はその赤月先生とやらが今『巴』と呼んでいた。
赤月巴。
この名は聞いた覚えがある。しかも最近だ。
……確か原と赤也が敗れた青学の選手の片割れが赤月巴じゃなかったか?
そうだ。間違いない。
柳がスポーツ医学の権威の娘だと話していた。
きっと彼女だ。
突然自分の事を話題に出されたので、つい名乗りそこねたけれど、それならきっとまた会える。
その時には、彼女が見たがっていた自分のテニスが見せられるようにしよう。
くるくるとめまぐるしく表情が変わる少女。
彼女のテニスプレーは一体どんなものなのだろう。
楽しそうに微笑むと、幸村は傍らのラケットを握り締めた。
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