合宿所、と言うとどうも簡素な宿泊所を連想しがちだが、Jr選抜の合宿だけあってこの宿舎は施設が充実している。
これは非常にありがたい。
柳は図書室の隅でデータの整理の真っ最中であった。
やはり全国レベルの強豪が一同にかいすというのは興味深い。
個々のレベルが改めて浮き彫りになると同時に学校単位での個性や特徴もまた見えてくる。
一般の練習や試合ではわからないそんな部分をまとめていたその時、戸を開ける小さな音に柳は振り返った。
首を左右に動かし室内を見渡すようにして入ってきたのは、柳にとって少々意外な人物―――赤月巴だった。
彼女の性格に関して柳は詳しいわけではないが、あまり図書室に出入りするようなタイプには見えない。
ましてこんな合宿中に。
少しの興味を覚えて見ていると、巴と目が合った。
「あ、こんにちは、柳さん」
「ああ」
軽く、会釈する。
しばし逡巡する素振りを見せた巴はやがて意を決したようにこちらに近づいてきた。
「あの、柳さんにお聞きしたい事があるんですけど!」
話。
自分に。
何か相談を受けるほど親しくしたつもりはないのだが。
しかし興味はあったので、手にしていたノートパソコンを閉じる。
この場合の興味の対象は話の内容と巴自身、その両方に対してである。
「私、この合宿にいてもいいレベルなんでしょうか?」
その事か。
柳は合宿開始早々に彼女が揉めていた事を思い出した。
「補欠云々との汚名は、お前が試合に勝つ事で払拭したのではなかったのか」
また、少し巴が黙りこむ。
屈託も躊躇もなさそうな相手だと思っていただけに意外だが、殆ど面識のない自分相手に相談などをしている為か。
これがまだ相手が貞治だったら様子も違ったのだろうか。
……ここで迂闊にも初めて柳は巴が本当は乾を探していたのであろう事に気がついた。
図書室に入ってきた時のあの様子。
誰かを探しているような。
彼がいなかったから、仕方なく今自分相手にこんな話をしているのだ。
「幸か不幸か、私はダブルスの選手ですから。
試合に勝つ事が出来たからと言って私の実力で勝ったとは限らないです」
それは確かにそのとおりではある。
勝負は時の運、実力通りの結果がでるとは限らない。
そしてダブルスである以上、パートナーの影響は否定できない。
だけれど些か意固地に過ぎる彼女の言葉から、巴が自分のレベルに拘るもう一つの理由が推察できた。
おそらく、補欠扱いはあの時だけではなかったのだ。
テニスを始めて1年足らずで全国大会に出場し、なおかつ選抜に選ばれる。
何年もテニスを続けているものが願っても叶えられない望みをこの短期間であっというまにさらっていく。
そんな彼女が周囲の嫉妬と反感の対象になるのも当然の帰結だ。
そして、そんな輩が彼女を中傷するにあたっての最適の事柄が、
彼女が監督推薦枠選手、いわゆる正規選抜選手ではない補欠、という点なのだろう。
自校の推薦枠、しかも彼女の父親はテニス指導者の中では名前の売れている赤月博士。
本気で贔屓による選抜だと思っている者がいてもおかしくない環境である。
おそらく、彼女は今、自分から客観的なデータが欲しいのだろう。
冷静冷徹正確に自分の今の実力を示してくれる数字を求めているのだろう。
しかし。
「……言っておくが、俺が今持っているお前に関するデータを開示する事は容易い。
だが、それはあまり意味がないぞ」
「どうしてですか!?」
柳が再びノートパソコンを開く。
キーボードを叩く音が少しした後にグラフのようなものがが表示されたが、細かい上にややこしく巴にはその内容を把握できない。
「……見ても理解が出来ないからですか」
「いや、そういう意味ではない」
どうも今日の彼女は卑屈にすぎる。
「テニスを始めて一年という経験の短さでは伸び率や成長傾向を出しても仕様がないという事だ。
実際問題、まだ自分のテニススタイルすら掴みかねている、というのが現状なんじゃないか」
的確な柳の指摘に、巴が目を伏せる。
酷な言葉かも知れないが、ここで能力の伸びだけを例にとって茶を濁したところで到底彼女が納得するとは思えない。
意を決してさらに巴の恐れている答えを口に出す。
「そして、現時点でのお前の総合的な実力は、お前も気がついているようにこの合宿に来ている誰よりも低い」
そこまで言い切ってから、しばらくの沈黙の後、柳はゆっくりと言葉を継いだ。
「……だったら、どうして自分が今ここにいるのか。そう思っているだろう」
こくり、と巴が無言で頷く。
現実を受け止めるだけの覚悟はできていたようだ。
それを確認すると柳が再びキーボードを叩く。
次に画面に表示されたものは、巴にも理解できるものだった。
テニスの試合データ。
そして、この内容は。
「何の試合か、分かるか?」
スコア、6―3。
この試合は。
「私の地区大会決勝の時の……」
「御名答。
対不動峰戦ミクスド1、橘兄妹との対戦結果だ」
地区大会。
巴の初の公式戦。
試合内容としては自分で思い返してみても決して褒められたものではなかった。
無様なミスを繰り返し、パートナーの足を引っ張った上の敗北。
なんとか一時1ゲーム差まで追いすがったものの、そこまでだった。
不意に柳が笑った。
その理由がつかめず、巴はむっとした表情をみせる。
「何がおかしいんですか、柳さん」
「ああ、悪い。
自信がないのか自信満々なのかさっぱり分からないと思ったのでな」
「自信なんて……あるわけないじゃないですか」
反論するが、なおも柳は楽しげである。
「だとしたら、随分と橘はなめられたものだな。
彼はれっきとした全国プレイヤーだ。
テニスを始めて二月にも満たない選手相手に負けるはずがない。
オーダーが発表されたときに、皆言っていたよ。
青学は1ゲーム取ることが出来れば御の字、2ゲーム取ったら奇跡だ、とな。
……ん? ああ、そうだ。俺はこの試合、観戦していたよ」
無論巴の試合を見ることを目的として試合会場を訪れたわけではない。
九州二強の橘率いる不動峰と、手塚を擁する青学。
今年のこの二校の実力を確認する為だった。
正直、ミクスド選手で注目していたのはジュニアで名を馳せながら突然姿を消していた小鷹くらいで、巴に関しては『あの赤月博士の娘が青学でテニスをしているらしい』くらいの情報しかなく、実際興味もなかった。
ミクスド1が小鷹でなくて正直がっかりしたくらいだ。
ミクスド1は捨て駒か。
そう判断していた柳にとって目の前で展開された試合は驚愕に値するものだった。
捨て駒? とんでもない。
青学は、もし橘兄妹ペアに勝つとしたらこのペアしか居ない、そう判断したのだ。
精度の低いショット、計算も何もない本能のままとしか思えない動き。
それでも、時折目を見張るほどの優れた球を返す。
経験のあるパートナーとの連携すらまだ完全とはいえないのに、それでも1ゲーム差にまで詰めたときには柳ですら奇跡を期待した。
「正直驚いたな。
データどころじゃない。何もかもが型破りだ。
この試合以降、予定が合う限りはお前の試合を見てきたつもりだが、概ねの評価は変わらない」
総合的技術は確実に上がっている。
だけど、試合中のムラの大きさは相変わらずだ。
なのに、いや、だからこそか。
「お前のプレイには何か期待してしまうんだよ。
常に此方の思う以上を見せてくれるんじゃないかと、な」
監督たちの意向などは知らない。
しかし、柳自身は願った。
巴がもし選抜選手に加えられたのなら、どれほどの変化を見せてくれるのだろう。
合宿中で誰よりも成長するのは彼女だ。
それが、自分は見たい、と。
思いもかけない言葉をもらってどう反応していいのやらと困っている巴に、柳はにこりと微笑んだ。
「大切なのは、今現時点の実力ではなく合宿が終わった時の実力だ。
評価を決めるのは自分だ。雑音は気にしなくていい」
「……はいっ!」
巴が笑った。やっと。
少し、柳は安堵した。
今日ここで出会ってから初めての笑顔だったから。
コート上で会心のショットが決まったときに見せる、彼女の笑顔がとても好きだったから。
「まあ、口で言うほど簡単なことではないだろうがな」
「う……、そ、そうですけど、気にしないように頑張ります」
相談に乗ってくれてありがとうございました、と頭を下げて退出しようとする巴に柳はほんのついでのように声をかけた。
「そうだ、今度俺ともペアを組んでみないか」
「へ? 柳さんと、私が、ですか?」
「ああ、こんな機会でもないとお前と組むことはないしな。どうだ」
嬉しそうに巴が肯定の返事を返す。
「ぜひ、私からお願いしたいくらいです!」
「そうか。じゃあ、明日」
「え? 明日いきなりですか?」
「不都合か?」
性急な言葉に驚きつつも慌てて首を横に振る巴とは対照的に柳はゆったりと片手を挙げた。
「それでは、明日」
また明日、コートで会いましょう。
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