伊達に詐欺師と呼ばれているわけではないので、人を騙す事には自信がある。 あの手この手に舌先三寸で、大抵の相手は煙に巻く。 しかし、最近それが難しい相手がいる事に仁王は気付いた。 巴? まさか。 端から猜疑心の弱い彼女を騙すのは簡単だ。 ただ、結果が予測と違う方向に向くことが多いだけで。 騙せない相手。 他でもない。 ―――仁王本人だ。 「じゃあ、今日のところはこの辺にしとこうかの」 そう言って仁王がラケットを下ろすと、ネットの向こう側で巴が頭を下げる。 「お疲れ様でした!」 そして散らばったボールを広い集め、片付ける。 ここのところの週末のお決まりの光景である。 帰り支度を済ませ、帰路につくその時、不意に仁王が言った。 「で、今日はどうしたんじゃ?」 「はい?」 言葉の意味するものがわからず巴が聞き返す。 仁王は親指で自分の唇に触れた。 「珍しく、というか巴がそんな風にめかしてるのは初めて見たナリ」 「ああ、これですか」 仁王の指摘にやっと巴が彼の言わんとすることを察して笑う。 今日の巴の唇は、普段とほんの少し色が違う。 「この間、朋ちゃ……友達がくれたんです。 けどよく気が付きましたね。部の人は誰も気付きませんでしたよ」 確かに、巴の唇に重ねられた色は淡いピンク色で、自然色に近い。 学校で塗っていたとしても、見咎められることはないだろう。 部で気付いた人間がいなかったというのも納得できる。 しかし、その言葉に内心仁王は少し機嫌を損ねた。 部の人は気付かなかった。 それは、つまり自分に会うより先に巴は別の場所でその唇を彩っていたという事で。 くだらない。 実際別に深い意味はないのだろう。 だから、そんなことを気にする自分が一番気に入らない。 「ほう」 内心の腹立ちを紛れさせるように仁王は巴の唇に手を伸ばす。 油断しきっている巴の唇に、仁王の右手の親指が触れた。 そのまま、ほんの少し力を入れて巴の唇を指がなぞる。 「え」 予想外の行動だったのだろう。 一瞬硬直した巴が、我に返って慌てて一歩下がる。 「こんなにハッキリ色がついとるのに」 もともと赤い唇の上からでは目立たないリップのピンクは仁王の親指の腹で元の色彩を自己主張している。 その色を写し取るかの如く、仁王はその親指をねぶるように自分の唇に押し当てた。 「な……っ!」 もうどこも巴には触れていない。 けれど指に移ったリップを通じて繋がっているかのように、瞬間巴の頬が朱に染まる。 仁王が狐のようにつり上がった目を細めた。 そのからかうような表情に巴が何事か言おうとしたが、言葉にならずにただぱくぱくと口を開け閉めするのみだ。 「じゃあ、行くぜよ」 唇の端で笑い、先に立って歩く。 自惚れでなく、巴が一定以上の好意を自分に抱いてくれているのだろうことくらいはわかるし、知っている。 けれど今日のように彼女が屈託なく話す日々の出来事に、巴と自分ではその度合いが少しばかり偏っているのではないかと、そんなことを思うのだ。 小さな胸の痛みと共に。 ……知っている。これは嫉妬だ。 こんなくだらない事を気にする自分を仁王は好きではない。 出来れば、認めたくない。 しかし、どれだけ目を背けてもそれは変わらない事実なのだ。 自分自身を騙しきることが出来ればどれだけ楽か知れないが、そんな欺瞞はすぐに剥がれ落ちてしまった。 悪ふざけの中に本当を隠す。 仁王にできるのは、そうやって情けない自分をおくびにも出さないようにすること、それだけだ。 「ん?」 ウェアの裾を引っ張られ、振り返る。 巴が仁王を見あげ、その瞳を捉えた。 「このリップ、学校で塗ったのは貰った時にその場で試しに塗ったからで……だから、自分の意志で塗ってきたのは、今日が初めてなんです」 「なんじゃ、いきなり」 「え。あー……えっと、気にしないでください。それだけです」 空とぼけた返答を返すと、巴が慌ててごまかそうとする。 その反応に苦笑を浮かべ仁王は自分のウェアの裾を掴んでいた巴の手をとる。 「ピヨ。冗談じゃ。 しかしお前さん、妙なところだけ聡いのは考えものじゃな」 「どういう意味ですか」 見透かされている。 敵わない。 そうとはっきり言わなくても明らかに彼女は自分の妬心に気が付いている。 何も気づかれずにいたのなら、まだ堪えることも出来るのかもしれないけれど、隠しても彼女にはお見通しなのだったら。 この狭量な独占欲と嫉妬心は、抑える事ができないだろう。 「まあ、それもええか」 「だから、何がですか?」 手は繋いだまま、背をかがめて巴の目の高さに顔を寄せると、息がかかるほどの距離で囁いた。 「巴にはこんな痛みを教えた責任、取ってもらおうかの。覚悟しんしゃい」 その唇に触れる権利は、自分だけのものだ。 |