「もう、合宿も終わっちゃうんですよねえ……」 不意に、巴が夜空を見上げて淋しそうに呟いた。 明日はJr.選抜の大会である。 それが終われば、選手達は三々五々に散らばっていく。 練習はハンパなく厳しいが、祭の準備期間のような感覚があったのも確かだ。 そして、普段と違うメンバーと練習を重ねる事によって、意外な変化が訪れたのもまた確かだ。 合宿前の切原に今の自分は絶対に想像できなかった。 ダブルス、しかもミクスドに自分が出場を決めるなんてきっと柳だって予測不能だ。 「明日で終わり、だな」 多少センチな気分だったのは否めない。 しかし巴の言葉はそれだけが理由ではなかった。 「結局、唯一の自由時間は昼寝に費やしちゃいましたよね……」 そこかよ。 今日の昼にイメージトレーニングをしている途中で寝てしまった件だ。 さすがに今更言い訳するつもりもないが、巴が寝たのだけは自分のせいじゃない。 「別にいーじゃんか。お前なんかやりたいことでもあったのかよ」 「やりたいっていうか……」 巴が少し口ごもる。 「なんだよ」 「海に、行きたかったなって」 「海ぃ? そんなもんダッシュ練習ん時とかに何度も行ったじゃねえか。 大体今の時期海なんか行ったって泳げねえし」 切原にとっての海とは『泳ぐ場所』である。 よって夏以外の海に存在意義は見い出していない。 しかし巴にはそうではないようだ。 「練習の時は砂浜走ってるだけじゃないですか。 せっかくこんなに海のそばなのにもったいない!」 「ったって……」 だから泳げもしない海で何をしたいのか、と言おうとして、別の事を思い付いた。 「んじゃ、今から行こうぜ」 「え」 巴が大きな目を見開いてこちらを見る。 驚くのは当然だ。 現在日は完全に落ちて消灯まであといくらか、といった時間。 外に出るなんて発想があるはずもない。 だからこそ切原は自分の思いつきが気に入った。 「海、行きてーんだろ?」 「行きたい、じゃなくて行きたかった、って言ったんですけど!?」 「一緒じゃん」 「一緒じゃないですって! こんな時間に抜け出したら、あとで手塚先輩や真田さんにどれほど怒られるか……!」 それは、想像するだに恐ろしい。 しかし、そこでそうですか、と引き下がるような性格ではない。 こうして施設内で話していても、吹く風の中に潮の匂いが混じる。 目と鼻の先の場所だ。すぐに帰ってくれば問題ない。 「バレなきゃいいんだって!」 そう言うと、なお躊躇する巴の手を引いて合宿所の灯りとは反対方向へ歩き出す。 通用門を抜けて敷地の外へ出る。 場所が場所なだけに車の通行は殆どない。 三月初めのこの時期、顔に触れる夜の空気は少し冷たい。 「うわ、真っ暗ですね!」 道路際の街灯の他は、月だけが光源だ。 どこまでが夜空か海なのか判然としない海辺に立つと、その存在を主張するかのように波の音が響く。 「……昼間ってこんなに波の音デカかったっけ」 「他に誰もいないから、大きく聞こえるんですかね」 誰もいないから。二人のほかは。 砂を踏みしめる音も、やけに耳につく。 波打ち際に近づいて海水に触れようとした巴が目測を誤って足元を濡らし、声をあげる。 月光の下でみるその笑顔は初めて見るように新鮮だった。 昨日は、もう巴の笑顔は見られないんじゃないかと思ったのに。 今、こうやって巴が笑ってくれて、良かった。 やっぱり春の海は泳げないけれど、存在意義がないとはもう思わない。 結果から言うと、あっさりとバレた。 それほど長居はしなかったつもりだったのに、合宿所の入り口には真田が仁王立ちして待っていた。その横にはお約束のように手塚もいる。 さすがに回れ右して逃げ出したい衝動に駆られるけど巴と一緒なのでそうもいかない。 「このたわけどもが!」 「すいませんでした!」 開口一番大音量で怒鳴りつけられ、条件反射で二人そろって頭を下げる。 「ただでさえ大会の前日だ。軽挙妄動は慎むように」 「はい!」 その続きが来ないので、不審に思いながらそろそろと顔をあげる。 不機嫌な表情は変わらないものの、これ以上続けるつもりがなさそうな。 恐る恐る、切原がお伺いをたてた。 「……あのー、それだけっすか?」 「なんだ、物足りんのか」 「いえ、それはまったく!」 「先ほども言ったが、大会前夜だ。明日の試合に差し支えては元も子もない。 反省する気持ちがあるのなら明日の大会で結果で示すように。判ったなら部屋に戻れ」 「……はい!」 ある程度の叱責は覚悟していたので予想外の温情に拍子抜けしたような気分で、再び一礼する。 切原が反対方向を見ると、先輩連中がニヤニヤと笑いながらこっちを見ているのが見えた。 ひょっとして抜け出した時点からバレてたんじゃないだろうかという思いが一瞬胸をよぎる。 「あー、助かった〜。一晩中説教かと思ったぜ」 「それだけ判っててそれでも実行したんですね」 「だから」 「バレないと思ったんですよね?」 先手を打たれ、二の句を継げず黙り込んだ切原に、巴は笑う。 「それじゃ明日、おやすみなさい」 「おう」 手を振って女子部屋の方へと向かう巴とは逆方向――立海の先輩連中の待ち構えている方へ向かう。 「大会前に、余裕じゃのう」 「ほっといてくださいよ」 「婦女子を夜間に連れ出すとは感心しませんよ」 「だーから!」 「おい、赤也」 「ほっといてくれって言ってんじゃないっすか!」 「じゃなくて、ホラ」 ジャッカルに後ろを指差されて振り返ると、戻ったはずの巴がこちらに向かってくる。 「言い忘れた事があったんで」 「言い忘れ?」 すっと切原の耳に口を寄せる。 「ありがとうございました」 先ほど怒られた手前、おおっぴらには言えないのだろう。 側にいる先輩にも聞こえないような小さな声で。 「それじゃ、今度こそおやすみなさい!」 駆け足で戻っていく。 ぼんやりと見送っていると、いることすら忘れていた先輩に横で茶々を入れられる。 「赤也、鼻の下」 「伸びてねえっすよ!」 |