一緒にスクールで練習をした日の帰り、巴とブン太は同じ電車に乗っていた。 青春台に付けば巴は電車を降り、ブン太は車両に残る。 もともとそれほど長い時間ではないけれど、話をしているとそれはあっという間に過ぎてしまう時間だ。 『次は青春台、青春台』 車内に流れたアナウンスに巴がはっと窓の外を見る。 見慣れた風景は、降りる駅がすぐそこまで近づいている事を指し示す。 もう、リミットが来てしまった。 「あ、じゃあ丸井さん、今日はありがとうございました」 電車が減速し始める中、頭を下げて扉付近へと移動する。 扉が開いた瞬間、不意にブン太が口を開いた。 「なあ、俺らつきあわねえ?」 え。 聞き返そうと思ったけれど、住宅地である青春台で降りる乗客は思いのほか多く、巴の身体は自分の意志に反して車両の外へと押し出されていく。 ホームに降り立ち、振り返った巴の目に入ったのは閉まるドアとその向こうで手を振るブン太の姿だった。 常と変わらない笑顔で。 思わず巴も笑顔で手を振り返してしまい、そうこうするうちに電車はホームを離れて小さくなって視界から消えた。 付き合うってのはやっぱり男女交際の付き合う、だよね。 でもなんで急にあのタイミングで。 考えてもわからない。 少し前から親しくなって何度か一緒にテニスをする仲になってはいたが、元々神奈川と東京に離れているので接点が多いわけでもない。 テニス以外の目的で会ったことなんてあったかどうか。いや、ない。 ブン太といると楽しい。 それは絶対。じゃなきゃ一緒に練習なんてするわけない。 けれど、それが恋愛感情かどうかなんてわからない。 常日頃朋香の恋愛話を聞かされてはいるが、自分の見に置き換えたことなんて、一度もない。 想像したこともないし、想像できない。 けど、まだ救いと思えるのはブン太が立海の生徒だという事だろうか。 これが青学の生徒であれば、翌日にはもう顔を合わすのだ。 どんな顔をすればいいのか見当もつかない巴にとってこれは非常にありがたい。 ちょっと、心の整理が付くまで連絡しなきゃいいんだ。うん。 そう考えて一時保留にしてしまおうと勝手に決めていた巴だったが、土台それは無理な話である。 数日後、鳴り響く携帯をあっさり巴は取ってしまった。 「はい、もしもし」 「あ、赤月? 今週末ってヒマ?」 ブン太だ。 何の心の準備もなく通話ボタンを押してしまったので激しく動揺する。 居留守を使うべきだったかも。 いやでもそれで後から掛けなおす事になったらその方が勇気がいる。 動転しまくっている巴に対してブン太はいつもどおりのマイペースな口調で用件を述べる。 「ジャッカルのヤツとこっちのスクールに行く約束してたんだけど急にアイツに予定がはいっちまってさ。 んで、せっかくコート一面予約してんのにもったいねえからオマエ空いてねえかなって」 「あ、はい、空いてます!」 「オッケー。じゃあ日曜に」 ツー、ツー、ツー。 ……一時保留にしておこうってのはどうなったんだっけ。 けれど、あまりにいつもどおりなので逆にこの間のは空耳だったのかも、という気にもなってくる。 一瞬だったし、聞き返す間もなかったのだから。 そうだとしたら自意識過剰も甚だしい。 そんなこんなで結局一週間、巴には珍しく考え尽くめでしかし答えが出るわけでもなくなんとも不安定な状態のまま巴はまた電車に乗る。 いつも通っている自由の森のテニススクールも遥かに通り過ぎ、神奈川へと向かう。 駅前の待ち合わせ場所には、ブン太の姿はまだない。 時間を確認すると、約束した時間にはまだ少しだけ余裕がある。 そこらを出歩くほどの時間があるわけではないのでぼんやりとその場で待つ。 今日もいい天気だ。 少し日差しが強いくらいだから暑いかもしれない。 背後に人の気配がした。 てっきりブン太だと思って振り返った巴と目が合ったのは、まったく知らない別の人だった。 しまった。 こういう場所で人を待っている時に近寄ってくる輩には一部を除いてろくなのがいない事は上京してからの生活で学んでいる。 目をあわさないのは鉄則なのに。 「ちょっといいかな」 「いえ、あの、人を待っているんで!」 「そんなに時間はかからないから」 ああもう、いわんこっちゃない。 閉口している巴の右肩に急に重みがかかった。 「悪いけど」 そのまま左側に引き寄せられる。 相手を、声の主を確かめる間でもない。 「俺の彼女にちょっかいだすの、やめてくんない?」 「ま、丸井さん!」 「ったく、油断もスキもねえな。 遅れて悪ぃな赤月。大丈夫だったか?」 「いえ、まだ待ち合わせの時間より前ですし……って、誰が彼女なんですか!」 「え? 誰ってオマエが」 「…………!」 しれっと言うブン太に何か言ってやりたいがなんと言っていいやらわからない。 「オマエだって先週『つきあわねえ?』っつったら笑って俺に手ぇ振ってたじゃん」 「いやそれはそういう意味じゃなくって……っていうかやっぱり空耳じゃなかったんですね……」 巴の最後のつぶやくような台詞を聞き逃さなかったらしくブン太が口の端をあげて笑う。 「何? 空耳じゃねーよ。もっぺん言おうか?」 「い、いえっ!」 「じゃ、改めて返事聞いたほうがいい?」 「え、いえ、それも……まだよくわかんないというか……大体、なんで急に」 両手を巴の肩に乗せてこっちを見ているブン太の顔が近い。 目を逸らそうにも逸らせない。 だから目を合わせちゃだめなのに。 「そりゃ、急にそう思ったからじゃねーの? オマエと一緒にいると面白えし、また一緒にいたいって思うし」 面白い、というのははたして褒め言葉なのだろうか。 けど、こっちを見て笑うブン太の目にウソは感じられない。 「…………」 「で、巴。返答は?」 急に下の名で呼ばれて心臓が跳ね上がる。 肩に下げていたラケットケースをブン太との間に挟み、バリケード代わりにしながら巴はやっとの事でこう答えた。 「ほ、保留で! 早く、早くコート行きましょう! 時間がなくなりますよ!」 無理に腕を払って一歩を踏み出しかけて、足を止めてもう一度ブン太の方を見る。 少しつまらなそうな表情をしているブン太に、ぺこりと頭を下げる。 「それは、それとして。 ……さっきはありがとうございました」 そして改めて歩き出す。 あっけに取られたような顔をしたブン太が微笑んで一つ息を吐くと、その後ろを追いかける。 「保留……ねえ。 まあいいけど、巴。俺様を惚れさせたんだ、覚悟しなよ」 絶対に『イエス』って言わせてやるからさ。 巴は沸騰しそうなくらいに赤くなっているだろう顔を見られないように必死で早足で歩いていった。 覚悟を決めなければならない時はもう、すぐなのかもしれない。 |