「ハァッ、ハァッ………」
荒い息を吐くと、那美はラケットを下ろす。 これ以上練習を重ねても、効果は出ない。 それは長年の経験ではっきりわかっている。
なのに。
少し息が落ち着いてくると体が落ち着かなくなってくる。 何かにせきたてられるような思い。
やらなければ。 走りつづけなければ、追いつかれてしまう。
「なに、今度は小鷹が倒れるわけ?」
急にかけられた声に驚いて振り向くと、リョーマがベンチに腰をかけてこちらを見ている。 いつの間にそこに来たのか、いつからそこにいたのか、まったく気がつかなかった。
「リョーマくん……」 「赤月がバカなのはわかりきってるけど、 お前までそんな無茶してんのって珍しくない?」
昨日、巴が無茶な練習が原因で倒れたのは周知の事実である。 その翌日に自分がこんなバカげたことをしているのは、確かにリョーマにしてみればおかしなことだろう。 ずっとテニスをしていた那美ならば、一日無茶な練習をしたところで体を壊すだけだということはわかりきっているのに、と。
「リョーマ君、今日のモエりんの試合、観た?」 「…………」
彼女がこの合宿で初めて壁にぶつかっていた事は知っていた。 だけれど、何かしてあげられることも無い。 そう思っていたのだけれど。
今日の試合で巴は生まれ変わっていた。 今まで生かしきれていなかった潜在能力を如何なく発揮して山吹のダブルスを打ち破ったあのテニス。 彼女は完全に復活したばかりでなく大きく飛躍した。 それを目の当たりにして那美は戦慄したのだ。
……彼女が、追いついてきた……!
「はじめはね、モエりんのことをライバルだとも思ってもなかったの。 うぬぼれとかじゃなく、彼女はテニスを始めたばっかりだったし。 彼女が強くなっていくのは仲間として純粋に嬉しかったんだ」
それが、変わってしまったのはいつからだったろう。 着々と力をつけていく彼女をみて、初めて気がつくのだ。 巴と、自分との差は既に僅かでしかない、と。
スタート地点では確かに遥か後方にいた彼女が。 いつしか、自分のすぐ後ろまで近づいてきている。 全力で走っても、どんなに走ってもその影は振り切れない。
練習をサボっているつもりは無い。 むしろ、テニスを再び始めた時から誰よりも熱心に練習を重ねてきたつもりだ。 その自負はある。 でも、だからこそ。
「なのに、今は怖いんだ。 いつモエりんに追い抜かれるんだろうって。 そればっかり考えてる。 モエりんが勝っても、素直に笑えない自分がいやで。 それを振り切るには強くしかないって、気ばかりあせっちゃって……」
リョーマに向けて苦笑してみせようとしたが、うまくいかなかった。 なんだか泣きそうになる。 今泣いたらダメだ。 リョーマ君に心配をかけるだけじゃない。本当に負け犬になる。
と、今まで黙って那美の話を聞いていたリョーマが唐突に口を開いた。
「ねぇ小鷹。 明後日の大会、俺と組まない?」 「……え?」
予想外の言葉に、涙も引っ込んだ。
「なんで……? リョーマ君、シングルスじゃないの?」
「この間まではそのつもりだったけど、気が変わった。 お前、赤月に勝ちたいだろ?」
直球のリョーマの言葉に、取り繕う事も無くただ頷く。 勝ちたい。 誰よりも、彼女に勝ちたい。
「お前はさ。 他の奴よりもテニスの嫌なところをたくさん知ってる。 けど、誰よりテニスに執着してる。絶対にテニスを捨てられない。 俺はそういうお前と組んで赤月のテニスを倒してみたい。 ……俺も、赤月に勝ちたい」
いかにもリョーマらしい、利己的な言葉。 しかし、それは偽りの無い真実の言葉だ。 リョーマは那美に勝たせてやる、などということは毛頭考えていない。 ただ那美と組めば巴に勝てる、そう判断しての言葉。
それが、那美には嬉しかった。 思いやりのある嘘よりも、利己的な真実。
「わかった。 よろしくね、リョーマ君」
そう言って差し出した右手をニコリと笑ってリョーマが握る。
那美の目は、すでに追われる者ではなく挑戦者のそれであった。
後ろを振り返らず、ただ前に進む挑戦者の。
かくしてこの日、一組のペアが誕生した。
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