所詮、彼も『二年』なのだ。 そういう考えがどうしても頭から抜けなかった。
彼、橘桔平が不動峰にやってきたときに思ったことはただ、
『また増えた』
それだけであった。 今の二年三年もまた、それまでは先輩連中に虐げられてきたのだろう。 それを自分たちに還元するその考え方に賛同するつもりはないが それすらも経ていない橘が自分たちの上に位置するのかと思うと我慢ならなかった。
何の苦労もなく、ヤツは先輩面をして上にたつのだ。 たった、たった一年、早く生まれたというだけで。
「よう、今から部活か? 深司」 「……ちわ、橘先輩。」
明るく背後からかけられた声に陰鬱に伊武は返答を返した。 朝から爽やかなその表情が若干鬱陶しい。
先日、橘はテニス部に反旗を翻し、伊武達一年と共に新しいテニス部を作るべく奔走していた。 当然コートも元々のテニス部が使用しているのでコートを作ることからはじめるという途方もない行動である。 本当に認められるのかどうかそれすらもわからない。
それでも、一年生6人は橘に従った。 無能な先輩のボール拾いや雑用のみをさせられている現状よりは遥かにましだと、そう思えたからだ。 それでも、テニスがしたかった。 入部から何ヶ月も経過した今もなお、こんなクダラナイ上下関係を強要するこの部に残っているのは心底テニスが好きな奴等だけだ。 だからこそ、橘の行動に光を見出した。
そんなこともあって一年に橘は今崇拝にも近い状態で慕われていた。
「あ、橘さん! …っと、深司もいたのか」
この男などはその典型だ。
なお一層陰鬱な気分になる。
「なんで神尾まで俺のこと名前で呼ぶわけ……?」 「え、だって橘さんがそう呼んでるし。別にいいじゃん」
これだ。
橘は伊武のことのみを名前で呼んでいる。 神尾や森などは単純にそれを羨ましがっているらしいということも知っている。 橘が特別扱いする理由は簡単。 伊武のみが橘に対してよそよそしいからだ。 親しみやすさでも深めようとしているらしいのだが、冗談じゃない、というのが伊武の正直な気持ちであった。
代われるものならばとっくに代わっている。
ちなみに、橘自身は『先輩』と呼ばれることをあまり好まないため伊武以外の一年は橘を『橘さん』と呼んでいる。 はっきりとした上下関係を示しているようで嫌なんだそうだ。 伊武がそれを知っていながらあえて橘を『橘先輩』と呼ぶのはささやかな抵抗もさることながら所詮、橘も『先輩』でしかない、という思いがあるからだ。
「なあ、なんでそんなに橘さんを嫌うんだ? 他の二、三年とは違うじゃんか、橘さんは。 テニスの実力だってあるし、口ばっかじゃなくてちゃんとやることやってっしさ」
神尾にはそう言われる。 伊武にだってそれくらいはわかっている。
わかっているけれど。それでも。
それでも、神尾達のように芯から心酔できない自分がいる。
無意識のうちに、伊武は恐れているのだ。 信頼して、そして裏切られることを。
楽しげに会話をする二人を尻目に校舎裏に向かった伊武の目に入ったのはある程度予測できてしかるべき光景だった。
「新しいテニス部? 随分と勝手なことをしてるじゃねぇか。」
途方にくれたような表情をして立ちすくんでいる石田達と、 テニス部上級生の連中。
上級生の一人が設営中のコートに唾を吐き捨てる。 それを見た神尾の顔色が変わった。 思わず殴りかかりそうになるその肩をすんでのところで橘が抑えた。
「やめろ、神尾」
自分たちが手を出してしまえば理由はどうあれ、学校側の自分たちに対する心象は著しく下がる。 そうなってしまえば新テニス部設立は遠ざかってしまう…そう考えた末の言葉だった。
その橘の台詞に、一年は実質動きを封じられた。 力なく拳を下げた神尾の襟首を二年の一人が乱暴につかむ。 首元を捻りあげられた神尾がかすかにうめき声をあげる。
「一年は大人しく先輩の言うことに従ってりゃいいんだよ!」
手を離すと同時に今度は地面に叩きつけられる。 神尾だけではない。 数を頼んだ上級生にいい様に殴りつけられた。 容赦なく顔面に、腹に拳を叩き込まれる。 顔を殴りつけられ、口の中に血の味が広がる。 翳みかけた視線に自分と同じようにボコボコにされている仲間たちが見える。 当然、一年を扇動した橘も。 もともと実力者の転校生である橘は二、三年にとって一年と同じ異端であったのだ。
「やめなさい! …テニス部か!?」
しばらく後、校舎の窓から教師の声が聞こえた。 新コート設置場所が校舎裏であったのが幸いだった。 もしも目に止まらないような場所だったら気絶するまで殴られ続けていたのかもしれない。
殴られている間に意識下にあったのは
「いいか、自分たちからは絶対に手を出すなよ!」
という橘の言葉であった。
伊武達一年はその言葉を守り、全員一度も手を出さなかった。 ただ、無抵抗に殴られつづけていた。
騒ぎが収束し、テニス部は全員集められたが、しかしそこにいたのはテニス部の顧問。 テニス部のことは彼が全責任を負うという事なのだろうか。 公然と行われている上級生と一年との間の理不尽な差別を黙認しているこの教師が下した結論は伊武を絶望させるのに充分であった。
彼の判断は、『全責任は一年にある』というものだった。
自分の足元が崩れていくような錯覚を覚えた。 無抵抗で殴られていたのは、何のためだったのか。
所詮、こんなものなのだ。 報われないのならば、我慢の必要はない。 今すぐコイツの面を殴りつけて辞めてしまえばいい。
拳を握り締める。 が、一瞬早く誰かが動いた。
「あんたは指導者失格だ!」
一瞬、信じられなかった。 先ほど「手を出すな」とあれほど言っていた橘が一番に顧問に手を出したのだ。 憤怒の形相で。 橘は二年だ。 大人しくしていれば二年である彼にはレギュラーの好機も巡ってくるはずだ。 一年を扇動していたからといっても明らかに一番の実力者なのだから。
……一つ、答えが出たような気がした。
その後のことは正直あまり覚えていない。 全員無我夢中で上級生や顧問に殴りかかったような気がする。 結果、不動峰中学テニス部は暴力事件による対外試合停止、という非常に不名誉な称号をいただき、霧散した。
「あ、どうでした? 橘さん」
職員室を出てきた橘に真っ先に神尾が声をかける。 まるで主人を待ちわびれた犬のようだ、と伊武は思う。
「ああ、一応何とかなりそうだ。 顧問も何人か先生にあたってみたが名前だけなら貸してもいい、と言ってもらった。 あとは部長を決めて申請するだけなんだが……部長、誰がやる?」 「……は?」
一瞬冗談かと思ったが本人は大真面目なようだ。
「そりゃ橘さんでしょ。何をいまさら」 「いや、しかしここでの在籍はお前達の方が長いしな…今まではとりあえず代表者として俺が行っていたが」 「……テニス部は今から作るんだから在籍もクソもないんじゃないですか? だいたい誰が橘さん差し置いて部長になるなんていうと思ってるんですか……ったく、信じられないな……」
そ、そうか、と頷きかけた橘は伊武『橘さん』と呼ぶあまりのさりげなさに一瞬気が付かなかった。 思わず笑みがこぼれる。
「じゃあ、俺でいいか?」
当然、否を唱えるものはいない。
「おう、どうした深司。 あいつらはもうコートに向かったぞ」
「……橘さん、ちょっといいですか」 「ん? なんだ?」 「関東に越してくるときに、どうして他の中学…もっとテニスの強い学校を選ばなかったんですか?」 「はは、私立に行くほど家に余裕があるわけじゃないからな」 「でも、橘さんほどの実力だったら、奨学金制度を適用してくれる学校だってあったでしょう」 「そうかもしれんな。 だが俺はテニスの為だけに中学を選ぶつもりはなかったんでな。 不動峰にもテニス部がある事はわかっていたし」 「こんな部だとは知らなかったでしょう? しかも、当分公式試合には出られないですよ。 後悔、してないんですか」
あけすけな質問に、橘ははじめて言葉を選ぶように口を噤む。 しかしすぐにまたその口を開いた。
「……そうだな、初めは、少し驚いた。 しかし後悔は全くしていないぞ。 ここに来たから、俺はお前達に会えた。 たとえやり直しの機会があったとしても、俺は何度でもこの道を選ぶさ」
「この道……ですか」
「ああ、お前達と全国に行く、この道だ」
他の奴が聞いたら大言壮語だと、嘲笑うだろう。 全国大会どころか都大会、いや地区予選でさえも勝ち抜いたことのない不動峰が全国を目指すなどバカげていると。
だけど、今ならば信じられる。 自分は、いや、俺たちはこの人についてゆけばきっとその夢を掴み取れると。
すっかり橘を信じきってしまっている自分に伊武は密かに苦笑した。 これでは神尾の事を言えない。
「橘さん」
「ん?」
「全国、いきましょうね」
最近では随分自分に対して穏やかになった伊武に、橘は破顔して力強く応えた。
「ああ、当然だ」
自分達7人だけはこの道を信じている。 そして、実現させるのだ。
ここから、激戦区関東における一つの公立無名中学の挑戦が始まった。
〜Fin〜
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