軽く風が吹いた。
少し肌寒く感じるほどの温度だったが、汗ばんだ体にはそれが心地よい。
「あれー、季楽さん」
耳に入ってきた能天気な声に、思わず季楽は眉を顰めた。 できればあまり見たくない顔である。
「赤月……どうしたのさ、こんな時間に」 「えへへ、なんだか落ち着かなくって、素振りしてたところなんです。 季楽さんは、ランニングですか? ……汗かくの、きらいなんじゃなかったでしたっけ」 「……なに、イヤミ?」 「いや、そんなつもりじゃないですけど」
慌てたように言うと、巴は若干遠慮がちに季楽が座っていたベンチの対極側の端に腰を下ろした。
「まあ、キミに初日偉そうに言っておきながら負けたんだし、何言われてもしょうがないけどさ」 「そんなつもりじゃなかったんですってば! もう……」
軽く息を吐くと、唐突に巴はこんなことを言った。
「季楽さん…テニス、好きですか?」
何を突然、と思いはしたが、何故か素直に答える気になった。 なんとなしに空を見上げる。 今日は星がきれいだ。
「さあ。知らない。わからない。 ……好きとか、嫌いだとか思う前に気がついたらやらされてたし」 「私と逆ですね。 青学でテニス部に入るまで、ラケット握った事もなかったんです。 お父さんがスポーツドクターなんてやってるから、関わる機会は一杯あったはずなのに、わざと遠ざけられていたみたいで…。 ……私は、テニスが好きです。 まだ一年しかやってないし、何もわかっていないのかもしれないけど、この気持ちにだけは自信があります」
「で、何が言いたいワケ?」
要領を得ない巴の話に痺れを切らして言う。
「あ、すいません。 えーっと、だからですね……。 季楽さんも、テニスを嫌いになって欲しくないなーって。 私、季楽さんとやった試合、楽しかったですよ」」
自分で言った言葉が気恥かしかったのだろう。 少しの沈黙のあと、力の抜けた顔で笑う。
「…………」 「…………………」
巴は、何か言ってくれないだろうかという沈黙。 季楽は、何か言った方がいいんだろうかという沈黙。
「は、はは……じゃ、失礼します!」
先に気まずさに耐え切れなくなった巴がラケットを抱えてきびすを返そうとしたところを、季楽は呼び止めた。
「もうすぐ消灯時間だし、送っていくよ。 キミも一応は女の子だし。 あと、練習するたって夜にシャツ一枚じゃ肩冷やすってことくらい考えた方がいいんじゃない。はい」
そう言うと、有無を言わせず巴に自分のジャージを押し付ける。
「え、あの、季楽さん」 「……言っとくけど、次試合するときは勝つのは俺だから」
「……はい! 私も負けませんからね!」
もう、好きだとか嫌いだとかいうレベルじゃないのかもしれない。 すっかり体に染み付いてしまっている。 うんざりしているのかもしれないけれど、切り離す事など考えもつかない。
それにしても、別に俺がテニスを好きだろうが嫌いだろうがどうでもいいはずなのに、なんで人の事でこんなに嬉しそうな顔をするんだか。
変なヤツ。
「……やっぱり、汗臭いですね。 汗かくの嫌いって言ってた割に……」 「…………返して、上着」
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