彼は、コートに一人立っていた。 その日は青学の部活は休みだった。 しかし一年生部員の間でせっかくだから自主練習をしようという話になり、いそいそと学校にやって来たのだが、今現在巴以外の部員の姿はない。 それもその筈。時間を大幅に間違えていた。 三十分程度の間違いならまだ誰かいたかも知れないが、一時間以上となると。 そういえば前日の特別練習がハードだったので遅めの時間にしよう、という話になっていたんだった。 ……リョーマが部屋から出て来もしなかった時点でおかしいと思うべきだった。 学校に到着した時点で勘違いに気が付いた巴だったが、まあ一人でも出来ることはたくさんあるし、と気を取り直してコートに向かったところで彼を見つけたのだ。 誰だろう。 少なくとも青学の部員じゃない。 青学にあんなに明るい髪色の部員はいない。 金髪? 逆光だが髪の色が随分明るく見える。 他校生にしても、見覚えがないような。 そんな事を思っていると、相手の方も巴の存在に気がついた。 大股でこちらに歩を進めてくる。 随分と背が高い。乾先輩くらいある。そして。 「テニス部員はどこにいる?」 一気に背中に嫌な汗をかく。 ……日本人じゃない! 1メートルもない今の距離ならばもうハッキリと人種が違うのが分かる。 色素の薄い肌と瞳。 何か訊かれたみたいだけど、何を言っているのか全くわからない。 「ここは、青学テニス部のコートじゃないのか?」 重ねて何か言われるが、やはり判らない。とりあえず英語である事は確かみたいだけど。 助けてリョーマくん! と心の中で叫んで見てもリョーマは今ここにいない。 とりあえず、ラケットを手にしていることから考えてもテニス部に用があったみたいだ。 休みってどう言えばいいんだったかな。 「今日は部活、休みです。えーと、ホリデイ!」 「……今日は誰もいないのか」 あたふたしながら言った言葉は発音に自信がなかったがとりあえず通じたみたいだった。 少しがっかりしたような顔を見せた。 「お前は?」 「はい?」 「お前はここの部員なのか」 「あ、私は自主練です。……そうだ、折角だからよかったらちょっと打っていきませんか?」 「……?」 まくしたてられた日本語はまったく理解されていないみたいだったけれど、とりあえずテニスボールを渡してコートを指差すと、意図するものはわかってくれたみたいだ。 ちなみにこの時点では軽くラリーでも、くらいの気持ちであった。 が。 「…………え」 コートの向こう側から放たれたのはラインギリギリの鋭いサーブだった。 意表を衝かれて棒立ちの巴に、コートの向こうの彼はニヤリと口の端だけで笑う。 「もっと手を抜いたほうがいいか?」 何を言っているかはわからない。 わからないけど、わかる。 バカにされたということだけは。 「ちょ、ちょっと今のは油断してただけですよ!」 「じゃあ行くぞ」 二度目のサーブはなんとか返す。 すぐに容赦のないショットが再び返ってくる。 負けてはいられない。巴もまた全力でボールを打つ。 こちらだって青学のレギュラーという看板を背負っているのだ。 しばし、試合のようなラリーのような打ち合いが続く。 時間としてはそれほど長くはなかったけれど、全力で挑んでいたので息が荒い。 一息ついたところで、休憩を入れる。 持参したバックに丁度スポーツドリンクのボトルを二本入れていたので、片方を渡した。 汗をかいた身体に水分が染みわたる。 「アリガト、ゴザイマス」 「え、日本語喋れるんですか?」 ボトルを返却しながらの片言の言葉に驚いて訊いてみたけれど、本当の片言のようでイマイチ会話は通じない。 尤も、巴の方も英語の授業は受けていてもサッパリヒアリングが出来ていないのでお互い様といえばそうである。 そういえば、結局この人、何者なんだろう。 今更な疑問を抱いて件の人物を眺めていると、汗を拭いながら邪魔そうに髪を後ろに払いのけた。 初めは金髪なのかと思ったけれど、それよりもっと薄い色。 端正な顔も相まって絵本の王子様のようだ。 「キレイな髪ですね」 思わず口にしたが、やはり通じはしなかったようだ。 怪訝な顔をされたので笑って首を横に振る。 その時、ぐう、という音がした。 自分じゃない。ということは。 「朝が早かったからな」 「お腹、空いてるんですか? ちょっと待ってください」 確か、とバッグの中を探るとほどなく目的のモノが見つかった。 それを取り出し、手渡す。 「はい、これ」 「……? 飴?」 「あんまりお腹の足しにはならないかもしれないけど、全部あげます」 開封済みのスティックタイプのソフトキャンディを彼の手に押し付ける。 どう思われたのかは知らないが、とりあえず受け取ってくれたのでほっとする。 「そろそろ行く」 携帯で時間を確認した彼がラケットを仕舞い込む。 どうやら帰る時間らしい。 「もう帰るんですか? 付き合ってくれてありがとうございました!」 そう言って手を振ると、立ち去り際彼は一度だけ振り返って何事か言った。 「お前の髪のほうがずっと綺麗だ」 何を言われたのかわからないので曖昧な笑みを返すと、むこうも少し笑った、ような気がした。 ほぼ入れ替わりのように、やっと一人、コートに姿を現した。堀尾だ。 「よう! 赤月早いな!」 「あ、堀尾くん。ちょっと時間間違えちゃって」 「だよな〜。そんなこったろうと思ったぜ。 ところでさ、今ここから出てったのってリリアデント・クラウザーじゃねぇの?」 「誰、それ。外国の人ならいたけど」 言われた名前にさっぱり心当たりがなく首をかしげる巴に堀尾はあきれたように肩をすくめてみせる。 「知らないのかよ! 全国大会の準決勝で立海大付属と当たった名古屋星徳の選手じゃんか」 「え、でも外国の人だったよ?」 「だから、準決勝は全員留学生だったんだよ」 言われてみると、確かに夏に誰かがそんなことを言っていたような気もする。 しかし実際に対戦することはなかったので記憶からはキレイにすっ飛んでいた。 「……そっかー、強いわけだ……」 「けど、クラウザーは確か俺たちと同じ一年だぜ」 「え!?」 「ようクラウザー、青学はどうだった?」 「今日は活動をしていなかった」 「なんだ、折角関東まで来たのだから立海を破った実力を見てみたいって別行動までしたのに、無駄足だったのか。気の毒に」 「ああ。いや……」 ポケットに手を入れる。そこにあるのは、先ほど貰った腹の足しにはなりそうもない飴。 女子の割には中々面白い球を打つ少女だった。 他のメンバーと違い、クラウザーは日本に残る事を決意している。 日本でテニスをしていればまた出会う事があるかもしれない。 その時は、もう少し意思の疎通が出来るようになっているだろうか。 それはなんとなく楽しみな事のように思えた。 「どうかしたか?」 「いや、何も。……全くの無駄足というわけでは、なかったかもしれないな……」 |