絶対泣きたくなかった日






 あのまま試合を続行していたら、ひょっとしたら勝てたのかもしれない。
 逆に、完膚なきまでに叩きのめされたのかもしれない。
 それは、誰にもわからないし、考えても意味のない事だ。

 わかってる。

 そんな事くらいわかってる。



 なのに、どうしてこんなに。





 早く次の試合が始まればいい。
 こんな不安定な気分はきっとコートに立てば消えてくれる。

 だけどそう願う巴を嘲笑うかのように空は段々と曇りだし、小雨がぱらつき出している。
 今現在試合の延期が検討されているが、この調子で雨脚がきつくなってしまうとそれもやむないだろう。
 手持ち無沙汰を紛れさす為に、一心不乱に素振りをしていた巴の目に、伊武の姿が目に入った。

 と、いうよりも、目が合った。

 知らぬ顔を決め込もうかと思ったが、巴が伊武に気付いたのは目が合ったからだ。
 伊武もきっと気付いた。
 ならば、知らぬ顔もできないだろう。

 仕方なく伊武に頭を下げる。


 不安定な気分の時に限って彼に会うのはどういう事なんだろう。
 普段の自分なら、こんな気分でももう少しは取り繕うという事をしそうなものだが、こと伊武の前ではそんな気も起きない。


 不機嫌なのか、なんなのか自分でももてましている感情がそのまま顔に出ているだろうことは自覚していた。



 そんな巴の様子を見て、伊武はただ、


「お疲れ様」 

 とだけ言った。

 その言葉で伊武が巴の先ほどの試合結果を知っているという事がわかる。
 『おめでとう』でも『残念だったね』でもなく『お疲れ様』という言葉ぐらいしかそぐわない試合。

「……観てたんですか?」
「そんなわけないじゃないか。
 俺たち不動峰だってさっきまで試合だったんだから。
 ただ聞く気がなくったって聞こえてくるんだよね、青学と氷帝の試合結果は」


 そうだろう。
 本来ならシードでこんな初戦でぶつかりあうはずのない強豪同士だ。

 その遠因は不動峰でもある訳だが。



「棄権勝ちです」
「知ってるよ」

 伊武がそれを知ってるだろうと思いながら口にする。
 案の定、伊武からは予想通りの答えが返ってくる。



 何が言いたいんだろう私。


 本当はなんとなく判ってる。
 鬱憤をぶちまけたいんだ。

 けど、それは。


「悔しい?」


 珍しく伊武がそんなことを問いかけてくる。
 悔しいか悔しくないか。
 その答えはわかりきってる。けど。


「悔しがる権利は私には、ないです」



 そう。
 悔しがる事も悲しむ事も、それは鳥取の権利だ。
 故障者相手に試合をして、棚ぼたで転がってきた勝利を手にした自分には、悔しがる権利なんか、ない。


「なにそれ」
「一番悔しいのは鳥取さんです。
 勝った私が悔しがったりできるはずないじゃないですか」


 言った瞬間、声が震えそうになった自分に驚いた。
 泣かない。泣きたくない。
 泣く理由なんてない。

 それも、鳥取のものだ。


 そんな巴の様子に気付いた伊武が、ため息をつくとバッグからタオルを出して少々乱暴に巴の頭にかぶせた。
 これで他人からは泣いている顔は見られない。
 泣いていたとしても、の話だが。


「キミって案外すぐ泣くよね……それとも俺の巡り合わせが悪いのかな。
 だとしたら俺のせい? けどそれはあんまり理不尽だよなぁ……
「泣いてません!」


 言った瞬間、零れ落ちそうになった涙をタオルでごまかす。
 ごまかしきれたとも思えないけれど、伊武は何も言わない。



「だいたい、権利ってなんだよ。
 鳥取は全部わかってて試合に出たんだろ。
 それでどうなろうと自分の責任じゃないか。
 他人がどうこう言う必要ないだろ」
「そんな言い方、ないです!」

「じゃあ、言い方変えようか。
 本人の気持ちなんて、そいつにしかわからないんだから、
 それでキミが変に感情殺そうとする必要なんて、ないんじゃないの。
 ……キミのその『悔しい』とかの感情は、鳥取じゃなくてキミの感情でしょ」


 立場なんて関係ない。
 誰がどうとかじゃなく、自分がどう思っているか。



 巴は黙ってタオルをまた顔に寄せた。

「……理不尽じゃ、ないですよ」
「は?」
「理不尽なんかじゃないです。
 私が泣くのは、いつも伊武さんのせいですよ」


 なんだよそれ、と伊武が言う。
 巴は返事をしなかった。



 だって、ギリギリのところで巴の感情を開放してしまうのはいつも伊武の言葉なのだから。








「あ、いたいた深司!
 やっぱ次の試合から明日に延期だってさ……あれ、赤月」

 遠目に伊武の姿を認めて駆け寄ってきた神尾は、そこではじめて巴の姿に気が付いた。
 彼女が持っているタオル、伊武のものに似ているような気がするけれど。

「あー、やっぱり延期なんだ。
 じゃ、もう行くからタオル返してくれる?」

 伸ばした伊武の手に、巴が簡単に畳んだタオルを渡す。

「あ、はい。ありがとうございました」
「まあ、せいぜい明日も頑張って」
「はい! お二人も頑張ってください!」


 神尾にもぴょこんと頭を下げると、巴もまた青学メンバーのいるのであろう方向へ走っていく。


「なあ深司、アイツ、もしかして泣いてたのか?」
「いや」



 巴の背中を見送って、何気なく言った神尾の言葉を言下に伊武は否定した。


「泣いてないんだってさ」



「なんだ? そのあいまいな言い方……っておい深司! 置いていくなよ!」






はいまた長い。
しかも関東大会一回戦って前のお題でも使ってるネタなんですよね…。
でもこの話を経由しないことには先に進まない気がしたんで。

順番で行けば今回は伊武視点…となるはずですが巴ちゃん視点です。
次回は伊武視点です。

2007.6.29. 義朝拝

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