菜々子から短冊を受け取った瞬間に頭に浮かんだ顔は一つだった。
「えー……伊武さん、ジャージですか」
待ち合わせ場所に現れた伊武の姿を見て思わず知らず口から本音が漏れる。
確かに今日は平日なのだけれどまさかジャージで来るとは思わなかった。
巴の言葉に、伊武が少しむっとした表情になる。
「何。ジャージだったらまずかった?
そもそも誘うんなら事前に何か言っとくべきじゃない?
大体部活が終わった直後にいきなり呼び出されてここに来たんだから着替える暇なんてあるわけないじゃないか。そこらへんわかってんの? わかってないよね…自分は家が近いからって俺までそうだと思うのは勘弁してほしいよなぁ……。」
「いや、だってあの、私も今日さっき始めて知ったんで。
って、伊武さんひょっとして部活のあとそのまますぐですか?」
「すぐ呼び出されたからね」
それは、申し訳ない事をした。
確かに伊武の言うとおり青春台の商店街の七夕祭りなのだから彼に取っては近所というわけではない。
ひょっとして無くても着替える間もなかったということなのだろう。
「言ってくれれば、時間遅らせましたよ」
「別に。いいんじゃないの? キミが嫌でしょうがないんじゃなければ」
相変わらず、気を遣ってくれているのかなんなのか。
手にしている大きな鞄の中には制服がそのまままだ入っているのだろう。
巴も格別オシャレをしているわけでもない。
浴衣なんか着てきたりしなくてよかったと心底思う。
「赤月、こっち?」
「あ、はい、そうです!」
てくてくと商店街の中心へと歩いていく。
七夕、と言えば巴の頭には自宅で笹に短冊を飾る程度の感覚しかなかったのだが、あちこちに飾られた大きな飾りや立ち並ぶ屋台等、巴の知っている七夕とはスケールが違う。
「うわー、すごいですねえあの飾り!
私が小学校で作った七夕飾りと全然違いますよ!」
「……それ、当たり前じゃないの……?」
「そうですか?
あ、あっちにたこ焼き屋がありますよ! 食べませんか?」
おおはしゃぎの巴に伊武はわざとらしくため息をつく。
「なんですか、それ」
「別に。
部活の後なんだろうに随分元気だなって思っただけ。ひょっとして練習さぼってた?」
「そんなわけないじゃないですか! お祭りなんて楽しんでこそですよ」
「……そう。
でもとりあえず短冊飾ってからにしたら? 屋台回るのは。
……キミ絶対に屋台巡りに夢中になって忘れると思うし」
そう言うと伊武が進行方向の一点を指さす。
大きな笹が設置され、思い思いに皆が短冊を結び付けている。
そういえば短冊をもらっているのだった。
「後顧の憂いを絶つってやつですね!
先にメインの目的を果たしちゃいましょう!」
「それってこういうタイミングで使う言葉かな……どうでもいいけど」
二枚の短冊の片方を伊武に渡す。
願い事。
たくさん願いたい事はあるけどこれは今から笹に飾るものだ。
人に見られたくないようなお願いは書けないなあ。
ちらりと伊武の顔に目をやって、少し考えた結果『テニスが上達しますように』と書いた。
顔をあげると既に伊武の姿は隣にない。
見ると笹に短冊を結び終えたところだった。
「伊武さん!
どっか行っちゃったのかと思って焦っちゃったじゃないですか〜!」
駆け寄って笹を見上げるが、既に伊武は手を離していたのでどの短冊が伊武のものなのかわからない。
なので直接訊いてみることにする。
「伊武さんの短冊、どれですか?」
「どれだっていいだろ」
そういいながらも短冊の一枚を指差した。
短冊には少し小さめの字で『全国制覇』と書かれている。
「うわー、伊武さん大きく出ましたね」
「……コンソレーションでなんとか勝ち上がったくせに身の程知らずとか思ってるんだろうなあ……いいじゃないか、短冊に書くくらい」
「別にそんなこと思ってないですよ。
ただ全国制覇は青学がする予定なんで困りますね」
さらりと巴がそう言うとに伊武は呆れたような顔をして「ホント生意気だよな……」などと小声で呟いている。
自分の事は棚にあげて。
とか言ったらまた盛大にボヤくんだろうなあ。
「あ、ちなみに私はテニスの上達をお願いしました」
そう言って手に持った短冊を見せる。
別に訊いてないけど、と言いつつ伊武が結び易いように笹を巴の方へ引き寄せてくれたので、慌てて短冊を結びつける。
巴が結び終えたのを確認して伊武が手を放すと巴の短冊はずいぶん上の方へとあがっていった。
「まあ、まず目先の目標としては関東大会突破ですね」
「そうだね。……とりあえず今日の目的は果たした訳だけど、どうする?」
伊武の言葉に突如今日の本当の第一目的を思い出す。
そうだった。
言わなきゃいけない事があるんだ。
「あ、あの、伊武さん!」
「何」
「あの、そのですね……」
うまく舌が回らない。
頭の中で整理してある筈だったのに。
「財布でも忘れた?」
「違います!
えーっと、あの、この間は迷惑かけちゃってすいませんでした!」
なんとか言えたのはいいが、伊武を見ると眉が寄っている。
今更と思っているのだろうか。
そう巴が考えていると、伊武が口をひらいた。
「この間って?」
思い至らなかったらしい。
巴は拍子抜けだ。
「え、あの、先月公園で」
「ああ、その事。今更」
さっき巴が想像した通りの返答が返る。
確かに今更だ。
ホームシックを指摘された巴が伊武の前で大泣きしたあの日。
あれから二人は今日まで会ってはいないものの都大会後に電話での会話ならしている。
もっとも巴としてはずっと気になっていた。
ただ、伊武が何事もなかったかのように何も言わなかったのでなんとなくこちらも話題にしづらく、結局電話口ではあの時の事には触れず仕舞いだったのだ。
こういう機会のついでなら。そう思って伊武を呼び出した。
もっと何か言われるかと思っていたが伊武は何も言わない。
不思議だったのはそれだ。
いつもネチネチと些細な事でボヤきまくる伊武がことこの件に関しては黙して語らない。
どころか、
「ゴメンね」
突然謝られた。
訳がわからない。
熱でもあるのだろうか。
「え、迷惑かけたのは、私ですよ!?」
「うん。大迷惑だった」
容赦なく肯定の返答。
前言撤回。熱は無い。いつも通りの伊武だ。
まあ確かにその通りなので反論も出来ないが。
「俺はさ、今まで家から出て暮らした事なんてないんだよね。
まあまだ中学生なんだから当たり前だと思うけど。キミが特殊なんであって。
ああ言って置くけど一週間以内とかの短い旅行とかは数えてないから」
「……はあ」
いきなり滔々と語り出されても反応に困る。
「だから」
「だから?」
「キミが辛くたってわからないし、わからないから偉そうに助言も説教も出来ない。
わかったような顔で上っ面だけの慰めなんかも自分だったら言われたくない。だから俺はキミに何も言わない」
だから、『ゴメンね』?
別に、迷惑かけられただけなんだから、放っておけばいいのに。
何か言われるかとは思っていたけど何か言って欲しいわけじゃなかったのに。
「やっぱり、伊武さんって変わってますよね」
「……世界中の誰に言われてもキミにだけは言われたくないけどね」
心底嫌そうにそう言う伊武は、やはり巴には理解不能だ。
だけど、まあ、嬉しいからいいや。
「伊武さん」
「今度は何」
「ありがとうございます」
嬉しかったので、お礼を言った。
きっと、今満面の笑顔になってる。
だからだろう。また伊武に妙な顔をされた。
「なんの礼だよ」
「言いたかったんです。わかんないなら、いいんです」
伊武は何か言おうとしていたが、一旦口を閉じた。
深追いすることは諦めたらしい。
「……キミって本当にわけわかんないよね……
ほら、たこ焼き食べるんでしょ。行くよ、巴」
「はいっ!」
一年に一度の恋人達の逢瀬の日。
東京から見あげた夜空は星が少なくて、二人を遮る天の川も見えなかった。
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