梅雨の時期に外に出るのは億劫だ。
CDショップから出てきた伊武はポツリポツリと降り始めた雨にため息をついた。
これだから梅雨って奴は。
とはいえ別に傘がないから不機嫌な訳ではない。
この時期に傘を持ち歩かないのは余程自分の強運に自信があるのかそれとも考えなしかのどちらかだ。
ちなみにこの発言は、先日傘を忘れた神尾に伊武が投げつけた台詞である。
ともかく、鞄から折り畳みの傘を取り出し広げる。
その僅かな間にも雨足はその勢いを増していく。
これは本格的に降り出しそうだ。さっさと帰ろう。
そんなことを思いながら歩き出す。
公園の中を突っ切ったのはそれが一番の近道だからだ。他に他意はなかった。
誰かがいるとか、そんなことは思いもしなかった。
そもそも雨の中だ。
基本足元に目が行っていた伊武が彼女を見つけたのは、本当に偶然だった。
東屋で呆然と座り込んでいる少女。
とても見覚えのある、しかし見たことのない顔。
巴だ。
同じ地区内にある青春学園の1年ミクスド選手。
彼女のことは良く知っている。
ちょっとしたことで顔見知りになっていらいたまに練習に誘われるからだ。
そして聞いてもいないのに自分の事を色々話してくるので結果として彼女の居候先で飼っている猫の名前に至るまで巴のパーソナルデータが伊武に叩き込まれている。
お世辞にも面倒見や付き合いがいいとは自分でも思えないのだが何を言われても頓着せずにつきまとってくる。
不動峰中に一年のテニス部員はいない。
いたとしたらこんな風なのだろうか。そんなことをたまに思う。
始めは、人違いかと思った。
しかし近づくにつれ、やはり巴だと確信する。
伊武の知っている巴はいつも笑顔だ。
もしくは(伊武の発言で)ふくれているか、そのどちらかが大半だ。
いつも感情をストレートに表す。それが伊武の知っている巴だ。
決して今みたいに心ここにあらず、といった風体でぼんやりと視線をさまよわせたりはしていない。
まずいよなぁ。
唐突に、そんなことを思った。
今彼女に声をかけたらまずい。そんな気がする。
おそらくそこは踏み込んではいけない領域だ。
そこまでわかっているのに、面倒ごとは嫌いなのに、そもそも自分が彼女に声をかける筋合いはないはずなのに、伊武の足はその向く先を変えた。
一歩、二歩、三歩。足が前に進むたびに巴の姿が近くなる。
「……何やってるの」
一度だけ。
一度だけ声をかけて彼女が反応しなかったら戻ろう。
まだこの時点なら引き返せるかもしれない。
そう思ってかけた声に、巴はぼんやりと緩慢な動作で反応した。
ぼんやりとした目が、やがて伊武の存在を認識して目が覚めたように焦点が合う。
「あれ……伊武さん」
ああ、気づかれちゃった。
自分で声をかけておきながら伊武はまだそんな事を思う。
「何やってるの」
もう一歩、巴に近づきながらもう一度同じ事を問うた伊武に、巴は少し困ったように視線を落とした。
「何って……散歩してただけですよ」
「で、傘がないから雨宿り?」
「へ? 雨? あ、本当だ!」
伊武の言葉に初めて気が付いたのか、驚いたような声を出す。
雨が降っていないんだったら自分は今傘なんか差していない。
内心呆れつつ、また一歩伊武は前に進む。
もう身体は東屋の中に入ってしまった。
すぐに立ち去るのでなければもう傘を差している必要はない。
別に何を言われたわけでもないし、いる必要もないのだけれど。
少し考えてから伊武は傘を閉じる。
雨が降り出したのは確かに少し前だ。
だけど気が付かないほどかすかな雨じゃない。
東屋の屋根を伝って地面に落ちる雨粒の音がぽたりぽたりと耳に響く。
「……しばらく、やみそうにないですね」
「迎えに来てもらえば?」
「携帯、忘れました」
そういえば、巴は傘どころか全くの手ぶらだ。
散歩、という彼女の言葉を信じるのならばそれも不思議ではないのかもしれない。
ただ彼女の家からこの公園まではいささか散歩にしては遠い気がしないでもないが。
「携帯、貸そうか」
そう言って伊武が自分の携帯を差し出すと、巴は困ったようにそれを見つめ、やがてゆっくりと首を左右に振った。
「番号……家の番号しか、覚えて無いです」
家にかけるんだからいいじゃないか。
そう言おうとして気が付いた。
彼女の言う『家』は青春台にある越前家ではない。岐阜にあるという自分の家だ。
こんな雨の日に、迎えに来てもらうことも出来ない距離の彼女の家。
「……じゃあ、送ろうか」
乗りかかった船だ。しょうがない。
そう思いながら言った伊武の言葉にも、巴は首を左右に振る。
「リョーマ君の家には……まだ、ちょっと帰りたくないです」
越前とケンカでもしたんだろうか。
そう思った伊武だったがそれを言葉にする前に巴が慌てたように付け足した。
「あっ、別に、ケンカとかそういうんじゃ無いですよ?
いじめられてるわけでも無いですし、皆優しいんですよ。そう、みんな、家族みたいに……」
威勢良く言った言葉が、段々と尻つぼみに小さくなる。
家族みたいだけれど、家族じゃない家人。
番号がわからない自宅番号。
「ああ、ホームシック」
呟くように言った伊武の台詞に、巴の顔が歪んでその瞳から涙がこぼれた。
「ち、違いま……っ」
違わない。
きっと、巴は自分でもよくわからないままふらふらとこんなところまで歩いてきたんだ。
家を離れて数ヶ月。
よく知りはしないけど、そろそろそういう時期なんだろう。
必死で否定しようとしていた巴だったが、やがて言葉にならない声はただの嗚咽に変わった。
しばらくそのままそこに佇んでいた伊武だったが、やがて少しだけ距離を置いて巴の横に腰掛ける。
雨音と巴の泣き声。
それだけが聞こえる。
少し雨が小降りになってきた。
どれくらい経ったんだろう。
そう思って巴に気づかれないよう時計を見たら、随分時間が経っていた。
やがて、巴の嗚咽が段々と小さくなる。
鞄の中を探り、商店街でもらったばかりの封を切っていないポケットティッシュを見つけ出すと黙って巴に差し出した。
「すいません……」
ぐずぐずと鼻をすすりながら言う彼女の声は泣き過ぎて少し嗄れている。
「別に。
っていうか、本当は一人になりたかった? だったらごめんね」
「え」
「だって、こんな時に隣に誰かにいられたら落ち着かないだろ」
そうだよ。
一人にしておけばよかったんだ。
彼女の為にも、自分の為にもそれが一番良かったんじゃないか。
それに今やっと気が付いて内心腹立たしく思いながら言った伊武に、巴は激しく首を振って否定した。
「そ、そんなことないです!
確かにちょっと気恥ずかしいとかそういうのはありますけどでも今隣に伊武さんがいてくれてよかったです本当に!」
「……そう。ならいいけど」
顔を真っ赤にしながらさらに早口でまくしたてる。
「本当は、伊武さんが言ったとおりちょっと今日おかしくって一人になりたくってぼーっと歩いていたらここに来てたんですけど、でもやっぱり一人ぼっちでいるより二人ぼっちの方が、ずっといいです。
ありがとうございました!」
「……別に俺は何もしてないけど」
「ずっといてくれたじゃないですか」
かける言葉もないからただ無意味に座っていただけ。
そう思うのだがまだまぶたや鼻の頭を赤くしたままの巴が嬉しそうに笑うので、わざわざ言い返す気力も萎えた。
ぽつん、と水滴が一つ水溜りに落ちる音に顔をあげると、まるで巴が泣き止むのを待っていたかのように雨が止んでいた。
この傘ももう使わないで済みそうだな、と思いながら伊武はゆっくりと立ち上がる。
「じゃあ、俺は帰るけど。……キミも、もう、家に帰れる?」
「はい、ご心配おかけしました!」
もう、いつもの巴だ。
心配よりも迷惑だよなあ、掛けられたのは。
そう思ったが今口を開いたら文句より先に『家まで送ろうか』とかおかしな事を言い出してしまいそうだったので黙って巴に背を向け、手だけを軽く振ると家の方向へと歩き出した。
まだ、引き返せるかな。
……でも、どこから?
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