せっかく父が手配してくれたスクールだが、巴はあまり利用していない。
確かに設備は立派だ。
いつ行ってもコートの整備もしなくていいのはひどく魅力的だ。
だけど、いやだからこそ無料で施設を利用しているという後ろめたさのようなものが付きまとう。
なので、ここのところ巴が使っているのはもっぱら河川敷に設置されている簡素な無料コートだった。
そう話すと、父京四郎はお前らしい、と笑った。
が、もう一人同じような台詞を正反対のニュアンスで言った人物がいる。
「ああ、キミらしいね。けどそれこそ贅沢じゃない?
キミが来るせいで確実に一人分このコートの占有率が下がるんだからさ」
伊武である。
巴の言葉に対して返した言葉がこれだ。
「来るな、って言いたいんですか?」
「そんな権限俺にあるわけないじゃないか。
キミはキミの好きなようにすればいいんじゃない」
これだ。
伊武深司という人間は目下巴にとって最も理解不能な人物である。
口を開けばこの調子。
かと言って不親切なわけでもない。
むしろテニスの指導なんかは丁寧に教えてくれるのでよく練習に誘うのだが、知れば知るほど伊武は不可解だ。
そう、一緒に練習をするのだってそうだ。
初めて誘った時に
「なんで他校の選手のキミと練習しなきゃいけないんだよ。敵だろ?」
といきなり言われたので諦めかけたのだが、その後続けて
「でもわざわざ誘ってくれたのに断ったりしたら俺すごい悪者なんだろうなあ……嫌な奴だって言い触らされるんだろうなあ……。
わかった、いいよ。河川敷にあるコート分かる? あそこでいい?」
ときた。
別に悪口なんて言わないし無理して付き合ってくれなくてもいい、と言うと
「ナニ、キミが付き合って欲しいから誘ってきたんだろ。今更やっぱり嫌だとか言う訳?」
と絡まれる始末。
結局一緒に練習はしてくれるらしい、という事で今の状態にあるのだが。
本当に理解不能である。
もっとも、こういう話を学校でしたところ
『そこまで言われながら懲りずに毎回練習に誘ってるアンタの方が理解不能よ』
と言われたのだが。
それももっともだ。
もっともなんだけれど、別に嫌われている気がしないのでまた誘う。
それを繰り返すうちにやはりこれはただの性格なんだろうと思えてきた。
でも本人に確認したらまた多分ぼやき出すだろうから黙っている。
「この辺で休憩でも入れようか。……で、この間の結果はどうだったの?」
「え?」
突然かけられた言葉の意味を図り損ねたが、すぐにわかった。
先週の校内ランキング戦だ。
「あ、はい、おかげさまでレギュラーの座を守る事が出来ました!」
地区大会、巴はレギュラーとして試合に出場はしているが、あれはランキングの結果に関係のない特別措置だ。
だからこそ、今回は自力でレギュラーを勝ち取れたという事実が嬉しい。
しかし、それを伊武に言ってもしょうがないと思ってただ結果だけを伝えた。
なのに。
「ふぅん、じゃあこれから正々堂々と青学のレギュラーだって言えるんだ。
棚ボタでレギュラーになった先月よりずっと嬉しいでしょ。おめでとう」
そう言うと、伊武は微かに微笑んだ。
先月は自力でレギュラーになれなかったということは、確かに以前話した覚えがある。
だけど、それだけだ。
それ以外のことは、何も言った覚えはない。
正規のレギュラーではないことのコンプレックスも、やっかみまじりの批判も、全て自分ひとりだけの胸にしまっていた。
偶然だろう。
伊武は別に何か深い意味を持って言ったのではないんだろう。
しかしそれは巴の正直な思いだった。
そう、これからは青学のレギュラーだと胸を張って言える。
ユニフォームに袖を通すときに、妙な罪悪感を覚えないで済む。
正確に自分の心情を言い当てられた事にドキリとした。
「……どうかした? ぼーっとして」
一瞬で笑顔を消して怪訝な表情を浮かべる伊武に、はっと我に返った巴が口にしたのはしかし先ほどまで思っていたこととは全く別のことだった。
「え、いえ、伊武さんって笑えるんだなぁ、って思って」
「どういう意味だよ、それ。俺が笑っちゃいけない訳? 笑うことも出来ないような人間だと思われてるんだ。いやんなるよな、本当に……。」
「だって、私伊武さんと知り合ってからはじめてみましたよ、笑った顔」
「楽しいこともないのに、笑えるはずないじゃないか」
「じゃ、今楽しかったんですか? 伊武さん」
「……ホント、キミってナマイキだよね……」
どうでもいいような会話を交わしながら、やはり伊武がどこまでわかっていてさっきの言葉を吐いたのかは、訊けないままだった。
知りたいような、そんなことはどちらでもかまわないような、巴にしてはハッキリしない思いのまま。 休憩が終わり、この日の練習が終わった後も、ずっと。
後から思うと、これが多分、初めて伊武を意識した瞬間なのかもしれなかった。
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