「あれ、兄さん何してるの?」
杏が台所を覗き込むと、橘が棚から小麦粉を取り出して重さを量っているところだった。
小麦粉の他、台所に出ているのは卵、砂糖、バター、その他諸々。
そこから導き出されるのは。
「……お菓子?」
「ああ、心配しなくてもお前の分もちゃんとあるぞ」
「別にそんな心配はしてないわよ」
「ははは、そうか」
目は秤から離さないまま橘が言う。
趣味は料理、と言っているだけあって橘の姿を台所で見ること自体は別段珍しくもないが、作っているのがお菓子というのは非常に珍しい。
「ひょっとして……ホワイトデー?」
カレンダーを見て気が付いた。
そういえばもうすぐホワイトデーだ。
バレンタインは女の子にとってもっとも重要なイベントの一つなのだがホワイトデーは貰う側という事もあってそれほど強く認識していない為ついうっかり記憶から抜けがちである。
「ああ、お前と、赤月の分だ」
橘は今度は計った粉をふるいにかけている。
流石に手際がいい。
けど。
「えー……二人分?」
「ん、どうした? 量は充分だと思うぞ」
「いや、そうじゃなくて……」
ホワイトデーの贈り物を手作りで、しかも妹の分と一緒にって。
しかも先月巴が橘に贈ったチョコレートは確か市販品だった。
男女差別をするつもりはないが、引かれてしまわないんだろうか。
どうかしたのか、と杏の言葉を待っている橘に一言忠告したい気もするけれど、これはおせっかいかもしれない。
「……まあ、いいか。なんでもない」
結局、杏は橘に何も言う事なく自分の部屋に引っ込んだ。
本を片手にベッドに腰掛けると、軽く溜息をつく。
微妙に、兄さんは女の子の心理を判ってない気がするのよねえ。
そういえば、去年や一昨年ののバレンタインはホワイトデーのお返しにわざわざ台所に立つような事はしていなかった気がする。
今年だって、バレンタインに貰ったチョコは自分と巴からだけでもないだろう。
確かに、巴は他の女子の誰よりも橘との距離が近い。
けど親しいから、だけじゃない。
彼女は、『特別』だからだ。
そういえば去年の七夕も、クリスマスも、今年の正月も二人は一緒にいたはずなのに不思議なくらいにそういった匂いがしないのだけど、それでもきっと彼女は『特別』だ。
橘を見ていればわかる。誰より長く一緒にいるのだから。
ベッドの上に身体を投げ出して、目を閉じる。
うん、多分大丈夫かな、彼女なら。
きっと素直に喜ぶだけだろう。
巴が橘に渡したチョコレートは『特別』なんだろうか。
彼女にとっても橘が『特別』ならいいな、そんな事を考えてくすくすと笑う。
あの二人は好きあっていても、彼氏彼女になるまでにとてもゆっくりと時間をかけるんだろうな、そう思いながら。
階下からほのかに甘い香りが漂ってきた。
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