「ちょっと出かけてきますねー」
巴の声と同時に、玄関の戸が閉まる音がする。
「いってらっしゃい」
そう答えはしたものの、巴の耳には確実に入っていないだろう。
奈々子は軽く苦笑する。
「最近巴さん、日曜日の今頃の時間に決まって出かけますね」
「そーだっけ」
リョーマは奈々子の言葉に気のない返事を返すだけだった。
巴はいつしか小走りになっていた自分に気が付き、息を整えてゆっくりと歩き出す。
息を乱していたら話にならない。
あくまで、自分は通りすがりなのだから。
河川敷を歩いていくと、じきにテニスコートが視界に入ってくる。
公共のコートであるここは、休日は大抵人がいて、なかなか独占することは難しい。
けれどその分活気があり、スクールとはまた違った客層が見えて楽しい。
今日も練習に励んでいる人達に目を凝らす。
とは言っても目的の人物はいつもさして苦労することもなく見つけることが可能なので、すぐに見つけられないときは、いない時だ。
ほら、見つけた。
今日は運がいい。
見つけられたくないのならば地味なTシャツでも着ていればいいと思うのに、いつも真っ黒のユニフォームを身に着けているので遠目にもよくわかる。
近くまで寄っていっても、橘は巴に気づく様子もなくラケットを振っている。
すぐ横で、大きな声で挨拶をする。
「橘さん、こんにちは!」
驚いたように振り向いた橘が、巴の姿を認めて笑顔になる。
「ああ、巴か。
一瞬誰に見つかったのかと思って驚いたぞ」
「やましいことしているからですよ」
冗談めかして言うと、橘が照れたように笑う。
部活を引退してからは、名目上受験勉強に専念しているということになっているので、堂々とはテニスをできないらしい。
それを知っているから、巴もなんとなく週末にテニスの練習のお誘いの電話はし難くなっていた。
初めにこのコートで橘を見かけたのは、本当に偶然だった。
思いもかけず橘を見つけ、そして久しぶりに一緒に練習をすることができた。
それから、日曜日になると、昼過ぎより少し遅い時間に巴はここを通ることにしている。
いなければ、そのまま帰るだけだ。
電話はできないけれど、ここで出会うことができたら少し、練習に付き合ってもらう。
橘の息抜きの邪魔をしているのかな、と少し思わないでもないのでそれより早い時間にはここには来ない。
そんな巴の行動に、橘は気が付いているのかいないのか。
なんにせよ、今日は幸運にも出会うことができた。
こうして橘とできる練習はとても貴重だ。
もう少しすれば受験も終る。
けれど、そうしたらもう橘はすぐに高校に入ってしまう。
そうしたら巴の練習に付き合ってもらう暇などなくなってしまうかもしれない。
だけど、だからこうして一緒にいられる間は余計なことは考えない。
わかりもしない未来への不安にかられて今を台無しにしてしまうのはもったいないから。
教えてもらいたいことはそれこそ星の数ほどあるのだから。
「ありがとうございました!」
「いや、こっちこそいつもつき合わせてすまんな」
弾む息のまま、橘に頭を下げる。
遅い時間にはじめた練習は、あっという間に終ってしまう。
「巴」
帰路に付こうとした巴に、橘から声がかけられた。
何か忘れ物でもしただろうか。
そう思いながら振り返る。
「あー、その、俺の思い違いなら気にしないで欲しいんだが……。
別に電話してくれても構わないんだぞ」
「へ?」
「いや、だから、ここのところずっと電話がないが練習相手は足りているのかと思って、だな。
…………すまん、余計なお世話だったな。いないわけがないか」
失言をした、というように大きな手で口を塞ぐ。
気まずそうに目を逸らす。
「えーっと……受験勉強のお邪魔にならないんですか?」
「別に週末だけのことだろう。
一人でもこうして抜け出してしまうくらいなんだから支障なんかないさ」
アッサリと返された言葉に、じわりと自分が笑顔になるのがわかる。
ずっと我慢していたことなんか、お見通しだったのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。
けど、そんなことはどっちでもいい。
「あとで後悔してもしりませんからね?」
「しないさ」
即答した橘に、満面の笑みで巴は返した。
「じゃあ、また次の日曜に!」
|