九時四十五分。
約束の時間の十五分前。
当然、巴の姿はまだない。 それを確認して足を止め、壁にもたれかかる。
普通にたどり着ければ十分前。 出掛けに何かトラブったら、だいたい五分後。
基本的な巴の到着時刻である。 彼女が十五分前に既に約束の場所に到着しているなどと言う事はまずないと言っていい。 それでも最近の伊武は練習の待ち合わせなどで余裕が無い時を除いて十五分前には着くようにしている。
「あ、伊武さん! お待たせしちゃいました!」
離れたところで伊武の姿を確認したためか、巴が全速力で駆けて来る。 伊武の前に到着した時には少し息を整えなければいけない程度には。
「……別にそんなに慌てなくてもまだ約束の時間になってないけど」 「でも、待たせちゃってることに変わりはないじゃないですか! そういえば、伊武さん、最近来るのが早くないですか?」 「俺が早く来てたらまずいわけ? あー、気を遣わせてゴメンね。 ……こういうことには気が付くのになんでいつも肝心な事だけは気が付かないのかなぁ…」 「そんなこと言ってないじゃないですか! ……って、私が何に気がついてないって言うんですか?」
伊武が早くくるようになったのには当然、理由がある。 彼女を待たせると余計な心配をしなければいけないようになったからだ。 自覚が無いから性質が悪い。
「本当に…口を開けばナマイキなだけなのに。 黙ってればまあそれなりに見られるからだまされるんだろうなぁ…」
そこまで言われてやっと巴にも思い至った。 以前、伊武との待ち合わせのときにしつこいナンパに絡まれたのだ。 幸い、遅れて到着した伊武と目が合った途端に相手は退散してくれたのだが。 ……後ろ向きだったため巴は見ていないのだが、いったいどんな表情をしていたのか若干気になる。
「伊武さん、ひょっとして気を遣ってくれてたんですか? あー、大丈夫ですよ。 あんな事滅多にないですって! 私も知らない人についていったりしないですから」
巴の言葉に、伊武の目が半眼になる。
「はー……。 本当に、性質が悪いよね、キミって……」
「な、なんですか、その溜息!」
もう少し己を知って欲しい。 巴は目立つのだ。 初めて会った頃よりも格段に目を引くようになっているのは別段身長が伸びたせいではない。 先日の合宿でもどれだけこちらがやきもきしたのか、知らないのだ。
まあ、当然、口が裂けてもいうつもりはないが。
歩き出そうとした伊武だったが、ふと足を止めるとカバンからなにかを取り出すと巴に手渡した。
「あ、そうだ。 忘れるといけないから。ハイ、これ」 「……? なんですか、これ? 私の誕生日はまだまだ先ですけど」
明らかにプレゼント包装されたそれ―――この薄さから考えると紙封筒の中に入っている何か―――を受け取るときょとんとした顔でこちらを見る。
「何、とぼけてるの? それとも俺がお返しもしないような人間だと思ってるわけ? ホワイトデーだよ、バレンタインのお返し」 「あ……! そういえば、そうでしたね! すっかり忘れてましたよ〜。ありがとうございます!」
「あー、そう、忘れてたんだ……。 本当ムカつくなぁ、人の気も知らないで……。」
忘れられていた、ということに非常に引っかかりを感じている伊武だったが、そんな様子に巴はまったく気がついていない。
「伊武さん、これ、開けてもいいですか?」 「好きにすれば。もう君のものなんだし。 だいたい、ダメだって言ったってあけるに決まってるんだから」 「えへへ〜、バレてますか」
悪びれもせずにそういうと、巴は勇んで包装を破る。 中身は紙封筒。そしてさらにその中身は。
「あれ、これって……秋に私が伊武さんにあげたアーティストの……」
中身はコンサートチケットが二枚。
「確かあの時、自分も行きたかったけど一枚しか手に入らなかった、って言ってたから。 今回は2枚手に入ったし。 ……ひょっとして、ただの社交辞令だった? だとしたら返してくれる?」 「か、返しませんよ! 私だって本当にいきたかったんですから! やったーっ! ありがとうございます! で、二枚あるってことは、伊武さんも一緒って事ですよね?」
「……いいけど」
「わーい。 じゃ、この日は伊武さんとデートですね。 楽しみです!」 「……デート。 まあ、そういうことになるのかな。……そっか」
ああもう本当に。
いつも人がいろいろ考えてるってのになにも考えてないキミが常に先手打ってるってどういうことだよ。
ま、それがイヤじゃないからいいんだけど。 いいよ、今は負けておいてあげる。
……今だけだけど。
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