「……キツい」
手に持っていたコーヒーカップをテーブルに下ろすと、眉を寄せて不機嫌な表情を浮かべ伊武が絞り出すような声をあげる。
これは意外な反応だった。
伊武の不機嫌な顔などすっかり見慣れてしまっているが、普段のそれとは少し違う。
しかも、巴はただ「最近の不動峰はどんな感じですか?」と尋ねただけなのだ。
「あの、私まずい事訊いちゃいましたか」
「別に」
とは言うものの伊武の顔は渋い。
これ以上この話題には触れない方が良さそうだと巴は判断したが、別の話題を探す間もなく伊武がそのまま話を継続した。
「去年まで一応秋から引き継ぎはしてても基本的に橘さんに任せっきりだったから何をするにもスムーズにいかないし新入部員の指導も並行してやらなきゃいけないし。
まあ去年が後輩もいないし、橘さんがいてくれたしでテニス以外何も気にすることもなくて恵まれてただけなんだけどそのツケが一気に回ってきた感じ。
神尾なんかは何かわからないことがあったらすぐに橘さんに連絡しようとするんだけど流石にそんなわけにいかないし、ただでさえうちは学校から厳しい目で見られてるんだから小さな問題も起こすわけにいかないし……」
立て板に水のごとく弱音が飛び出した。
口もはさめずあっけにとられていると伊武が不意に我に返ったように顔を上げる。
「ゴメン、ただの愚痴だから適当に聞き流して」
「いえ、大変なんですねえ」
新年度が始まってひと月と少し。
丁度今が一番バタバタしている時期なのかもしれない。
最高学年ともなると受験もあるし、苦労も絶えないのだろうと思ってそう言うと伊武はふいと目線を逸らす。
「大変なんかじゃないだろ、この程度。
去年は橘さんが一人で全部やってたんだから」
本当にそう思っているのだろう。
実際橘はコーチと選手を兼任し、新生テニス部の創部に新しいテニスコート作りまですべてを率先して行っていたのだからそれと比べてしまうと確かに他愛ない事なのかもしれない。
けれど。
「橘さんは橘さんじゃないですか。
誰かと比べてどうとかじゃなくて今伊武さんがキツいって思ってるんだから大変は大変なんだと思いますよ」
「…………愚痴聞かせちゃって悪いね」
「私は聞くくらいしかできないんですからどんどん言っちゃってください!
それに伊武さんがこんな風に愚痴こぼすのなんて初めてだからよっぽどですよね」
ボヤキはしょっちゅうだがこういった愚痴は聞いたことがない。
ハッキリと口にしないが一年半前の暴力事件の余波はまだ決して消えてはいないのだろう。
校内での伊武達テニス部の立場は全国大会に進出した後でも良いものだとは思えない。
学校中から白眼視されていた去年を『恵まれていた』などと言い切ってしまうのだからよほど今がきついのだろう。
そう思ったのだけど、伊武としては少々違ったようだ。
「いや、それは大変だとかどうとかいうよりキミ相手だとつい気が緩むからなんだけど。キミにとってはいい迷惑だよね」
そう言うと、カップを口元に運ぶ。
吐き出すだけ吐き出して少し楽になったのか、その表情は柔らかい。
「迷惑とかはないですし、弱音はいてくれるのは逆に嬉しいくらいですけど、私そんなに気が緩むくらい能天気な顔してます?」
「……どうしてそうなるんだよ……ホント嫌になるよなぁ……まあキミが能天気だっていう点に関しては全くの同意だけど」
「そうじゃないんですか? っていうかまた眉間にシワ寄ってますよ?」
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