秋の匂いがする。
雑踏の中を歩いていた伊武が、ふとそれに気がついて歩みを緩めた。
鼻腔をくすぐる芳香。金木犀だ。
ちらりと周りを見渡して見ても花は見つからない。ただその香りだけがある。
それは伊武に何かを連想させた。
「あ、伊武さんこんにちは! 何やってるんですか?」
ほら、こんな感じ。
姿を認めるよりも先に強引にその存在を認識させる。
ほどなく伊武の後方から人ごみを掻き分け、駆け足で巴が姿を現した。
思いのほか遠くからやってきた。
週末の夕方という事もあって人の量は多い。さほど背が高いわけでもない自分の後姿をよく見分けられたものだと伊武は感心する。
「こんにちは。……相変わらず目敏いよねキミ。声もデカいし」
「目はいいんです! で、何やってるんですか?」
駆け寄ってきた巴は先ほどと同じ質問を繰り返す。
それを訊いてどうするつもりなのか伊武としては疑問なのだけど、かと言って回答を拒否するほど後ろめたい事をしているわけでもない。
「今日は河川敷に人が多かったから早めにあがって、そこのスポーツショップでグリップテープを買って帰るところ」
そして付け足すかどうか少し悩んで以下の言葉を追加する。
「そうしたら、金木犀の匂いがしたからどこに咲いてるのかな、って」
伊武の言葉に、巴が軽く鼻をひくつかせた。
前から思っていたけど彼女の行動仕草はいちいち犬を連想させる。
改めて意識するまでもなく金木犀の香りはあたりに立ち込めているのだけど、と思っていたが巴は金木犀の香りに気がついていなかったわけではないらしい。
「こっちの方じゃないですかね」
「目だけじゃなく鼻もいいんだ」
さすが野生児。
この分では聴覚も人並み外れているんじゃないだろうか。
「なんだかキンモクセイの香りがすると秋! って感じしますよね」
「…………」
「なんですか」
「……いや、キミでもそんな風流なことを考えたりするんだ、と思って。てっきり金木犀の匂いなんてトイレの芳香剤っぽいとかしか思わないのかと」
「失礼ですね! そんなわけないじゃないですか!」
「そんなわけない、のかなぁ。いつもの言動から考えるとそう思うのは自然だと思うんだけど……そりゃ悪かったね」
「……さらに暴言をかぶせてきましたね」
いつものことではあるが、巴が唇を尖らせて抗議する。
「謝っただろ」
「今のは謝罪とは認められません」
「面倒くさいなぁ……じゃあ、どうして欲しいのさ」
別に彼女に許しを乞う必要はない。
必要はないのだけれど。
……週末に河川敷で一緒に練習をする事もあるし、こんなくだらない事で怒らせる必要もまた、ないし。
そう、自分に言い聞かせる。
しかし基本カラリとした性格で根に持つということのあまりない巴のことだからどうせハンバーガーをおごるだとか、その程度のことだろうと思っていたが巴の要求は少し違った。
「キンモクセイがどこで咲いてるのか、探しに行きませんか?」
「……は?」
思っても見なかった事を言われたので思わず聞き返すと、僅かに巴の表情が曇る。
「ダメですか」
「別に、かまわないけど。意外だっただけ」
敢えて『てっきり何かおごれとか言われると思ったから』と言うのはやめておいた。
巴が妙に嬉しそうな顔をしたからだ。
「やったー! それじゃ、行きましょう」
そういって先ほど指し示した方向に伊武の手を引いて歩いていく。
香りは強いけれど小さな小さなオレンジの花。
探すのが何がそんなに楽しいのか。
きっとすぐに見つけてしまうんだろうに。
けれど、どこかの敷地の中に隠れてしまってなかなかその姿を見つける事は難しいかもしれない。
巴のように、すぐに向こうから姿を見せてくれるわけじゃない。
どこかそれを期待しているのかもしれない、と一瞬思ったが伊武はすぐにそれを自分の中で打ち消した。
人を惹きつける芳香の中で。
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