知ってるはずなのに知らなかった事






「何ぼーっとしてんの。行くよ」


 左手首をぐい、と掴まれそのまま走らされた。
 ダッシュした先に見えるバス停には今まさにバスが到着しようとしているところである。



「え、でも予定のバスはもう一本後のですよね」
「先のバスが今来たって事は遅れてるって事だろ。キミに付き合って寒空の下で待ちぼうけ食らわされるのはゴメンだから」


 伊武に手を引かれ、慌てて走りながらの質問に明確な答えが返る。
 ごもっとも。


 走る二人の姿が見えたからか、それとも後のバスとの時間調整なのか、バスは発車せず扉を開いたまま二人を待っていてくれた。
 なんとか乗り込むと、背中で扉の閉まる音がした。



 バスがゆっくりと動き出す。



 一息付いたところで巴は自分の左手首をじっと見た。
 もう、伊武の手は離れている。
 バスに乗り込む際にごく自然に離れて、それきりだ。
 手首を見ている巴に気が付いた伊武が眉を寄せる。


「なに、嫌味? あてつけ?
 跡が残るほど強く掴んだ覚えないんだけど」
「いえ、そうじゃなくて……」


 そこで一旦黙ると巴は次に伊武の方へと視線を移動させる。
 正確には、座席の背もたれについた手すりを掴んでいた伊武の手へと。


「伊武さんって身長私とあんまり変わらないですよね」
「……喧嘩売ってるの?
 確かにキミと2cmしか変わらないけど俺が小さいと言うよりはキミが無駄にデカイんだと思うけど



 しまった。
 失言に気付いてももう遅い。
 身長の話をして不機嫌になるのは別にリョーマの専売特許ではない。
 なまじ自分が全く気にしていないものだから巴は不用意にこういった発言をしてしまいがちである。


「いえ、低いとかなんとかそういう話じゃなくてですね、手が」
「手?」
「私より随分大きい気がして……」


 自分で自分の手首を掴んでも、ギリギリ指が届くかどうかといったところである。
 けれど、さっき伊武の手は余裕で巴の手首を掴んでいた。


『次、止まります』

 誰かが押したボタンに反応して無機質な機械音声が車内に響く。


「そんなの当然だろ」


 面白くもなさそうに伊武が言い放つ。
 ちょっと見には先ほどと同じ不機嫌な様子だが、その実もう気分を害してはいないようだとなんとなく窺い知れる。
 違いを説明しろと言われても難しいのだけど。


「えー、でも」
「女子と同じな訳ないじゃないか。大体手首の太さも全然違うし」



 確かにそうなのだけど。
 理屈としてはわかっていても感覚としてつかめていなかったというか。


 と、停留所に近づいたバスがブレーキをかけた。
 つり革が大きく揺れる。何も掴んでいなかった巴がいきおい前につんのめりそうになる。


「ひゃあっ!」
「何してんの」


 突進するような形で伊武にぶつかる。
 呆れた顔で巴を見た伊武が、彼女の周りにつかめるつり革がない事に気付くと自分がつかんでいた背もたれの手すりを巴に掴ませると、自分は巴と反対方向側にぶら下がっていたつり革を掴む。
 握ったそれは、ほんのりと人肌に温かい。


 うん。
 わかってるはずだったんだけど。
 伊武さんが『男の人』なんだってことくらい。


 掴まれたときの感触がまだ手首に残っているような気がして、なんだか落ち着かない。
 大きく首を振ると、今度は伊武に怪訝な顔をされた。







バスの背もたれについてるアレは『手すり』でいいのかな。
なんか違う気がするんですが用語が思い浮かばなかった。

2011.1.13.義朝拝

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