ぽつり、と鼻先に雨粒が当たる。
「降って来たね」
動きを止め、伊武が空を見上げる。つられて巴も上を向く。
額、鼻先。次々に雨粒が巴の顔を濡らす。
雲はそれほど分厚くはなさそうなのだけれど、段々と勢いを増してきた雨はすぐにやみそうな雰囲気ではない。
今日の練習は中断し、大急ぎでラケットをケースにしまう。
「けど、朝は晴れてたのにどうして伊武さんはちゃんと傘持ってるんですか?」
差し出された傘に入りつつ、巴が疑問を投げかける。
折り畳みの傘は巴が持っているものよりは少し大きめだけれど、二人で雨をしのぐには少し小さい。
伊武が巴の方にほんの少し傘を寄せてくれていることに気が付いているので、巴もほんの少し伊武のほうに身体を寄せる。
「朝、天気予報で降水確率50%だったから」
「え、そうなんですか!?
だったら私が電話した時に言ってくれれば良かったのに!」
「訊かれなかったし。……っていうか誘いの電話に今日雨が降るからとか言ったら水を差してるいやな奴みたいじゃないか。」
結果、伊武は黙って了承して河川敷のコートに顔を出し、50%の確率で雨も降ってきた。
巴は現時点の天気で全てを判断してしまいがちなので、そのとき晴れていれば1日晴れだと思うタイプだ。
曇りならばまだ用心もしたかもしれないけれど。
しかし、まだ練習を初めてそれほど時間も経っていない。
せっかくの休日なのに、すぐに解散してしまうのはもったいない。
「せっかくだから、行ってみたいところがあるんですけど、伊武さん付き合ってもらえます?」
そう言って巴が向かったのは、青春台商店街の隅っこにひっそりと存在していた小さなカフェだった。
あまり目立たないが、外観も内装も趣味がよく落ち着いた雰囲気の店だ。
「初めて見た時からずっとここ、来て見たかったんですよ。
けど、なかなか機会がなくって」
嬉しげにそう言うとメニューを広げる。
そんなに入りたかったのなら言えばいつでも付き合ったのに、そう思わないでもないが今さら言ってもしょうがないし、今一緒に訪れてるわけだから結果は同じか、と伊武は考える。
散々悩んだ末になんとかいう偉そうな名前の紅茶とケーキを注文した巴は楽しそうに店のあちこちを眺め回している。
喫茶店ひとつでここまで浮かれる事ができると言うのはある意味うらやましい。
『初めて見たときから』
巴がこの店を初めて見たのって、いつなんだろう。
どんなに遡っても一年以内。
彼女が東京に来てからまだ一年経っていないのだから。
窓の外は、雨が降り続いている。
薄暗い外の景色から目を転じると、深い茶色を基調とした店内は電球色の明かりによる柔らかい光で包まれている。
「キミ、さ」
「はい?」
聞こえなければそれでいい。
そんな感じに呟いた小さな声に、巴が伊武の方を見る。
「いつまで、こっちにいるの?」
巴は今は居候の身だ。
けれど、家がない訳ではないのだからいつかはそこに帰るのだろう。
青学の監督が呼んだのだと聞いた事がある。
だから、少なくとも中学の間はこちらにいるのだろう。
では高校は。
その先は。
こうして、何気ない時間を共に過ごす事ができる期間は、あとどれだけ残されているいるんだろう。
不意に、そんな事を考えてしまったのだ。
「……決まってないんでわからないですけど」
少し考えながら巴が口を開く。
「とりあえず高校まではリョーマ君の家にいるんじゃないですかね。
さすがにずっとお世話になる訳にはいかないし、その後は、一人暮らし、なのかなぁ……」
微妙に答えの方向が違う。
「……岐阜には帰らないの」
「帰らない、と断言は出来ないですけど、東京の方が進学の選択肢が多いですし」
そういえば、巴の将来の夢はスポーツドクターだった。
成る程確かにそれを考えると東京に留まるメリットは大きい。
「ふーん」
そうか、帰らないのか。
相槌だけをうつと、運ばれてきたコーヒーに砂糖をいれ、ぐるぐるとかき混ぜる。
カップを口に運んだ時に、向かいの巴と目が合った。
にやにやと笑っている巴に、眉をひそめる。
口元が緩んでいるのは何も運ばれてきたケーキのせいだけではなさそうだ。
最近、たまにこんな風に何か見透かされているような態度をとられる事があるのが、若干伊武としては癪に障る。
いつのまに、巴は自分の感情を読むのがこんなに上手くなってしまったんだろう。
自分のほうがよっぽど感情むき出しの癖に。
「……なに」
「それに、こっちには伊武さんがいますから」
不機嫌に言った言葉に返された返答に、危うくカップを取り落としかける。
本当に、性質が悪い。
きっとこれからもこのペースに自分は振り回されていくんだろう。
そう思うのが、悪い気分ではないのがまた、少し伊武には面白くなかった。
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