……また、負けた。 この合宿中、巴は敗北が続いていた。 やればやるほどわからなくなる。 私、今までどうやって勝ってたんだろう? コートに立った瞬間、何もわからなくなる。 ラケットの握り方は? ボールの返し方は? 頭が真っ白になる。 当然、いい方向にではなく。 ……これでは、初日に補欠呼ばわりされたのも当然だ。 素振りの手を休め、ため息をついて巴はラケットを置いた。 合同練習、個人練習。 そのすべてを手を抜かず全力でやっている。 これで駄目となると、もうどうしていいかわからない。 「あ、巴だ」 抑揚のあまりない声。 伊武だ。 巴の姿を認めると一直線にこちらに向かって歩いて来る。 置かれたラケットと、巴を交互に見る。 「まだ、練習してるの?」 「…………」 黙って目を伏せる巴に、伊武が眉を寄せる。 「なにシカト? 嫌な感じだなあ。 俺のせいで試合に勝てないって恨んでるんだ。あーそっか。そうだよね……」 勝手な自己判断で不機嫌にまくしたてる伊武に、巴は慌てて反論した。 「そんなこと言ってません。 自分が悪いんだって、ちゃんとわかってます」 「ふーん。じゃあ、どこが悪いのかも当然わかってるんだ」 伊武の言葉に再び巴は口を噤む。 わかるはずがない。 この合宿中、巴と主にペアを組んでいるのは伊武だ。 従って伊武もこの合宿中敗北を重ねているという事になる。 だからだろうか。 今の伊武は随分辛辣だった。 伊武の悪口雑言など慣れているつもりの巴だったが、自分のあまりのふがいなさも相まって泣きそうになる。 泣きたくない。 ここで泣いたら卑怯だ。 悪いのは自分なのに被害者ぶっているみたいで嫌だ。 必死で涙を堪えるが、目の前にいる伊武をごまかせるわけもない。 伊武が溜め息をついた。 「……あーあ。 とりあえず、座りなよ。これじゃ完全に俺がいじめてるみたいじゃんか」 伊武の言葉に従っておとなしく傍らのベンチに腰をおろす。 伊武もまた巴の横に腰を下ろした。 「キミさ、俺が怒ってる理由もわかってないでしょ」 伊武の言葉に混乱する。 彼が怒る理由など一つしかないんじゃないだろうか。 「私のせいで負けちゃってるから……じゃないんですか?」 恐る恐る言った言葉に伊武がわざとらしく大きな溜め息をつく。 「そんなことだと思った。 キミさあ、俺の事どういうヤツだと思ってる訳? どうしても勝ちたいんだったら初めからキミと組んだりしないよ。 あ、言っとくけどだからって負けたい訳でも勝ちたくない訳でもないから」 「……じゃあ、なんだって言うんですか」 正直、巴は苛立っていた。 こんな問答を繰り広げる余裕など今の巴にはない。 自分の事でいっぱいいっぱいなのに、伊武の事まで気をまわせるわけなんてない。 そんなささくれた巴の心情を知ってか知らずか、伊武はまるで先ほどまでの会話に関わりがないかのような台詞を吐いた。 「巴、目、つむって」 「どうしてですか?」 「いいから」 仕方なく伊武の言葉通り瞳を閉じる。 当然の事だが、視界からすべてが消える。 「息吸って」 暗闇の中で伊武の声がする。 言われた通りに息を吸う。 「吐いて。……少しは落ち着いた?」 「初めから落ち着いてるつもりです」 「……ホントナマイキだよなあ…… やりなおし。息吸って」 また吸う。 ひと呼吸おいてから再び伊武の声がする。 「はいて」 息をはく。 今度は伊武は何も言わない。 伊武の次の言葉を待つ巴の耳に、微かな風の音が聞こえる。 遠くの誰かの声。どこかで鳴いている鳥の声。 そして巴のすぐ右側にいる筈の伊武の気配。 しばらくたってから、ようやく伊武の声がした。 「キミ、今日の練習試合で俺が何を言ったか覚えてる?」 その言葉に、必死で巴は記憶をたぐったが、試合中に言われた事どころか、伊武が何をしていたかの記憶すらない。 一緒にコートに立っていた筈なのに。 「覚えてないでしょ。 ていうか覚えてる筈ないよね。初めから全然耳に入っていなかったんだから」 この時になってはじめて巴は怒ってる、と自分で言っている割には伊武の声音が優しい事に気がついた。 目を閉じていなかったら、きっと気がつかなかった。 心配かけてるんだ。 伊武の事を気にしている余裕なんてない、というさっきまでの傲慢で自分勝手な考えが恥ずかしくなる。 「……ごめんなさい」 「別に謝って欲しいわけじゃないけど。 キミさ、最初の試合の時はこんなじゃなかったよ」 負けはしたものの、その試合内容自体は決して悪くはなかった。 なのに巴は恐らく自覚している以上に勝敗を気にした。 気ばかりが焦ってミスを呼び、結果自分のテニスを見失った。 公式戦でもない合宿の練習試合で。 経験不足による自信のなさが初のスランプという最悪の形で表出したのだ。 「あの試合だけは一応ダブルスだったから。 ダブルスはパートナーが同じコートにいるって事、そろそろ思い出してくれる?」 パートナーの事を失念して一人で空回っても、勝てる筈がない。 そんな基本的な事を忘れていた自分に、巴は思わず苦笑する。笑ったのすら、なんだか久しぶりな気がする。 と、ふいに巴の頭が引き寄せられた。 ツヤのある髪が、かすかに頬に触れる。 慌てて閉じていた目を開く。 予想以上に近くにある伊武の顔。 マズイ。 このまま黙っていると、またわけがわかんなくなってしまいそうだ。 あわてて口を開く。 「あ、あの、私、もう、伊武さん怒っちゃって愛想つかされちゃったかと思いました」 「……怒ってるんだけと。まだ」 あくまで自分は怒っているのだという事を主張したいらしい。 反論してもボヤキにスイッチが入るだけだろう。 黙っている巴の態度をどうとったのか、伊武が妙なことを言う。 「だから、勝つまではキミがなんと言おうとパートナー解消してあげない」 巴が首を傾げる。 それは、普通逆ではないだろうか。 そして、もうひとつ浮かんだ疑問を口にする。 「……じゃあ私、勝ったら、ペア解消されちゃうんですか?」 そう返されるとは予想していなかったらしい。 しばしの沈黙ののち、返って来たのは、呆れたような言葉。 「勝ってるんだったら解消する必要なんてないじゃないか。 それとも何、解放されたいって思ってるんだ」 「な、そんなこと思ってませんよ!」 そう言うと、勢いよくベンチから立ち上がる。 何も解決なんてしていないけれど、やっと目が覚めたような気分だった。 「さあ、明日は勝ちますよー!」 「気合い入ってるのはいいけど、また空回りしないよう気をつけなよ……」 先ほどまでが嘘のように調子のいい事を言う巴に、しっかりと伊武が釘を刺す。 「なんでそうやって水を差すんですか! 大丈夫ですよ! ……多分」 甚だ心もとない。 「ふーん……人が親切で言ってあげてるのにこれだからなぁ……じゃ、行こうか」 「へ? どこへです?」 立ち上がった伊武に疑問の視線をぶつける。 伊武はわずかな顔の動きだけで宿舎を示した。 「夕飯。 キミが食べないんなら別に構わないけど俺は腹へってるから」 「あー! もうそんな時間!? 急ぎましょう!」 そう言って一気に駆け出す。 少し前までしょぼくれていたのが嘘のようだ。 巴の背中を見ながら、伊武は微かに笑みを見せるとひとり呟いた。 仕方ないから、俺だけはキミに期待しておいてあげるよ。 これからも。 「伊武さーん! 急がないと間に合いませんよー!」 既に遥か前方にいる巴が振り返っって伊武を呼ぶ。 本当に調子がいい。 伊武は巴に見えるように大げさに肩をすくめてため息をつくと、彼女の方へと歩いていった。 |