努力の軌跡の傷






「ひゃっ!」

 ボールを追い切れずに、ラケットを掲げたまま巴が盛大に転倒した。
 手がラケットを握ったままなので身体をかばうこともままならない。


「おい、大丈夫か?」

 反対側のコートから宍戸が駆け寄って来る。
 それを見て、決まり悪いのか苦笑いを浮かべながら巴がすぐに身体を起こす。

「あはは、やっちゃいました」
「……おい」
「は?」


 宍戸の表情と言葉に、自分の姿を顧みる。
 左膝に痛み。

「うわ」

 さっき滑り込んだ時にコートでこすったのだろう。
 右ひざに血がにじんでいる。あ、肘もだ。
 いったん傷に気がついてしまうと不思議に痛みがじわじわと襲ってくる。



「うわじゃねえ。ほら、来い」

 腕を引く宍戸に、巴がおそるおそる伺いをたてる。
 この状況で連れていかれるということは。

「あの、宍戸さん、どこへ……?」



「決まってんだろ。傷口洗い流しに行く」



「イヤ、遠慮します!」

 やっぱり。判りきっていた答えではあったが途端に巴の足が止まる。
 宍戸が振り返った。呆れた顔。
 当然である。

「何がイヤだ、テメェガキか!」
「ガ、ガキですよ! まだ去年まで小学生でしたから!」
「バカみてえな反論してんな! ほら、行くぞ」


 結局水道まで引きずられていく。
 力勝負ではさすがに敵わない。
 それでも、蛇口から流れる水を前に最後の抵抗を試みたが、結局虚しい徒労と終わりその場にいささか大げさな悲鳴が響く。



「……ったく、スポーツドクター目指してんだったら自分の怪我にも噸着しろ」
「あううぅ、理屈と現実は違うんです」


 涙目で巴が言う。
 堂々と言う台詞ではない。
 しかしこの程度の怪我はしょっちゅうしているような気がするが、痛みには慣れないものなのだろうか。

「嫌なら、少しは怪我しねえように気をつけろ。
 お前しょっちゅうどっかに怪我してねえか?」
「……宍戸さんにだけは言われたくありません」


 確かに、宍戸こそ年中生傷が絶えない。


「……お前は違うだろうが」


 不意に出た言葉。

 口にした言葉に自分で驚き、思わず手で口を塞いだ宍戸だったが、一度出た言葉は取り返すことなど出来ない。
 そして、その言葉で巴の様子が変わった。
 見る見るうちに機嫌が悪くなっていくのが手にとるようにわかる。



 はじめは、自分の馬鹿な発言を聞き咎められたのだと思った。
 しかし、言葉に反応したのは確かだったが、宍戸の思った方向とは少し違った。



「なんですか、それ!差別です!」
「は?」



「違うってどういうことですか。
 私が女の子だからですか?
 私は、ちょっとの怪我を気にして返せる球を見逃すのは嫌です。それじゃ、ダメなんですか?」


 宍戸が何か言う間もなくそうまくし立てる。
 この分ではどうやら、同じような事をかなりあちこちで言われているようだ。
 唇をかみ締めているのは先ほどまでのように傷口が染みる為だけではない。


 いくら男女平等とは言っても常に目に見える箇所に傷がある女子は窘められる。
 それが世間なのだから。




「……あー、悪ィ。
 別にそーゆーつもりで言ったつもりはねぇんだけど、誤解させちまったな」


 言葉を選びつつ言った宍戸の言葉に、巴が驚いたように顔をあげる。




 だけど、どういうつもりで言った言葉なのかは、口にしたくなかった。
 くだらない僻みが交じった『違う』の言葉の意味。





 お前は、俺ほど切羽詰った状況じゃねぇだろ?




 崖っぷちどころか、一度崖下に落ちた自分が這い上がるには、すべてを賭けて自分のテニスを構築しなおすしかなかった。
 それこそ、怪我などにかまっていられないくらいに。
 幸いにして再び舞い戻る事が出来たが、二度目が無い事は誰よりも自分自身がよく知っている。

 前に。もっと前に。


 常に足の下は薄氷である。




「お前、『怪我したらマズイ』とかってあんまり考えねぇだろ」
「…………」


「見ててあぶなっかすぎるんだよ。
 今に、一球とるために一試合捨てるハメになるような気がして」




 無茶をして、もしも取り返しのつかない事にでもなったらと思うとぞっとする。
 こいつはゼッタイにまだ伸びるのに。



 コイツがコイツなりに色々考えている事は知っている。
 遥か先を見ているせいで、今の自分が歯がゆくてしょうがないのも判ってる。
 判ってるけど。


「あせんな。
 せめて、練習中くらいはもうちょっと冷静になれ。……それこそ俺が言えたセリフじゃねぇけど」
「……はい」



 少し落ち着いたのか、存外素直に巴が頷いた。
 自分が口にするにはあまりに白々しい言葉。
 だけれども、偽りのない本音。

 パートナーでも、コートの同じ側に立っていても、全てから彼女を守る事など出来る筈も無いのだから。




「さて、と……」

 会話が一段落ついたところでおもむろに宍戸が自分のバッグからなにやら取り出す。
 それを見て、再び巴の表情が凍りついた。


「え、宍戸さん、まさか、まだ……」
「ん? あとは消毒だろ」



「いえっ! 結構です!
 これ以上まだ私の身体をいたぶるつもりですか!!」
「人聞きの悪い言い方してんじゃねぇ! 諦めて足出せ!」




 ……数秒後、再び巴の悲鳴があがった事はいうまでも無い。







アンケート結果
宍戸…………55票
リョーマ……15票
黒羽…………13票
壇……………5票

今回は宍戸でした。
書き始めはなんだかただのラブコメっぽかったんですがこのお題シリーズは基本シリアス、というコンセプトですので(ホントかよ)色々こねくり回しているうちにこんな話に。
いやまあオチはいつも通りではありますが。
視点が途中で巴から宍戸に変わってしまっています。この手癖はなんとかせねば。

2006.8.9

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