「巴さん」 「…………」 「巴さん?」 「あ、はい! すいません、なんですか?」 会話の途中に不意に物思いにふけるような様子を見せていた巴が数回の鳳の呼びかけに、はっと我に返る。 どうかしたんだろうか。 直前までの会話は別段特別なものではなかった。 新年度が始まって一ヶ月、部に入ってきた新入生もようやく勝手がわかってきたところだが、練習の厳しさにやめていく者が多いのもこの時期だ。 残念だけど氷帝でも今月に入ってからかなりの人数の新入部員が脱落してしまった。そんな話をしていただけだ。 別に、彼女の気に触るような事は言っていないはずだ。 言っていないはずだけど。 「何か、変な事を言ったかな?」 万が一、という事もあるので一応確認する。 そんな鳳に、巴は慌てて首を振った。 「いえ、全然そんなことないです! ただ鳳さんの話を聞いていて、もうこっちに来てから一年になるんだな……って」 一瞬、再び巴が遠い目をする。 彼女の家は、確か岐阜だったか。 「この間、久しぶりに家に帰ったんです。 そうしたら、家の中は私が東京に行った日からあんまり変わっていなくって、なんだか不思議な感じでした。 何も変わっていないけど、そこに私が居ないんだな、っていうことが」 見慣れた風景から、はじき出されたもの。 それは他ならぬ自分自身だ。 鳳が巴と知り合ったのは、つい最近のことだ。 だから、知識としてしか鳳は東京に来たばかりの頃の巴を知らない。 何を得て、何を捨て、今に至っているのかを。 「巴さんは、強いね」 「え?」 「だって、たった一人で東京に来たんだろう? 夢を叶える為に」 鳳は現状、家を離れる事など想像も付かない。 いつかはきっと離れる時が来るのだろうけど、それははるかな先の話に思える。 だから、この年下の少女の決断が尚更眩しく思われる。 「でも、それは聖ルドルフの人たちだって同じじゃないですか。 皆、一人で家を離れてきているんですから」 「そうかもしれないけど、彼らは寮だろう? やっぱり知らない人の家に下宿するのとは訳が違うよ。 やっぱり、すごいなって思うよ」 「……そ、そうですか」 真っすぐな鳳の物言いに、はにかんだ巴がうつむく。 親戚でもない赤の他人の家に住まうのは、この物怖じしない彼女でも少しはやはり気を遣うだろう。 家でも、学校にも一人の知り合いもいない状態から彼女はスタートを切ったのだ。 だからなのだろうか。 「けどね」 「はい?」 「無理は、してない?」 巴が一瞬言葉を失い、すぐに取り繕うように言葉を継ぐ。 「してないですよ! そりゃ、こっちに来て初めの頃はちょっと寂しかったこともありましたけど……今は友達もたくさんできましたし、リョーマくんの家族もよくしてくれますし」 彼女の言葉に、ウソはないのだろう。 少なくとも意識的には。 けれど、鳳は知っている。 巴は空元気が得意で、何事にもオープンなくせに人に弱みを見せたがらない。 「うん。そうかもしれないね。 けど巴さんは無理をしていてもあんまり頼ってくれないから」 「……ひょっとして、まだ合宿の時のこと、怒ってます?」 様子を伺うように巴が上目遣いに鳳を見る。 鳳は、にっこりと笑みを巴に返す。 「まさか。怒ってなんてないよ。ただ、いつでも甘えられる準備はしてあるんだっていいたいだけ」 我慢することに慣れすぎているように思えるから。 誰かに頼る事を恐れているように見えるから。 もう少し弱くていい。強くなくていい。 巴が、赤い顔を隠すように鳳の左腕に顔をうずめた。 氷帝のレギュラージャージの袖の間からくぐもった声が耳に届く。 「……知らないだけです」 「え?」 「頼りっきりなのに、鳳さんが気が付いてないだけですよ。 これ以上甘やかされたら、私ダメな子になっちゃいますよ」 鳳が視線を下げても、巴の顔は見えない。 「本当に?」 「本当です」 「俺は、君の支えになれてる?」 「当たり前ですよ。 ……それと、さっきの話には、続きがあるんです」 「続き?」 そこで、やっと巴が顔をあげた。 鳳の顔を見て、笑顔を見せる。 「岐阜の家に『帰った』んですけど、東京に戻る時もやっぱり『帰る』って自然に思ったんです。 私が生まれ育ったのは岐阜の家ですけど、青学の皆や、鳳さんがいる東京も、やっぱり私にはホームなんですよ」 そう言うと、鳳の左腕に今度は自分の腕を巻きつけて歩き出した。 家路へと続く一歩を。 |