香りは好きなのだ。 湯気と共に立ち上る甘い香り。 存分にそれを楽しんでから、カップを近づけ、口に含む。 …………やっぱり、苦い。 「何をしてる。ミルクと砂糖はここにあるぞ」 コーヒーの苦味に眉をしかめさせている巴に、呆れたような口調で跡部がテーブルの上を指し示す。 しかしそこにミルクと砂糖が用意されていることくらいは、巴にだってわかっている。 「ブラックで、飲もうと思って」 「飲めないんじゃなかったか」 正解。 巴はブラックコーヒーを飲めない。 いつもミルクか砂糖、もしくはその両方を入れて飲んでいる。 だがそれはいつもの話である。 「だって、このコーヒーはいつも飲んでいるのとは別物だって、跡部さん言ったじゃないですか」 「あ?」 「だから砂糖やミルクを入れて味を変えちゃうのは、もったいないかなって……」 ここは、跡部宅である。 以前Jr.選抜合宿中にコーヒーの話題をしたことがきっかけで、今日こうして跡部の家のコーヒーを飲ませてもらっているわけである。 巴が普段飲むコーヒーといえば、越前家で飲むインスタント。たまに倫子が豆を挽いてコーヒーを入れてくれることもあるが、その程度である。 おそらく格段に別物であろうこのコーヒーの味をにごらせてしまうのは少し気が引けたのだ。 対して跡部はいつものようにブラックでコーヒーを味わっている。 コーヒーはブラック、そしてホットで。 それが跡部のスタイルだと言う事を巴は知っている。 そしてそれが一番コーヒーを味わうのに適しているからだという理由も知っている。 そこまで知っていて、そして『とっておき』だと前置きされて出されたコーヒーにミルクを入れるのはためらわれてしまう。 「バーカ」 そんな心境を口にすると、跡部に鼻で笑われた。 「ば、バカってなんですか!」 「バカをバカと言って何が悪い。 そうやってお前、無理してブラックで飲んで美味いか」 「う……」 痛いところを突かれた。 美味しいはずがない。 「ほら見ろ。それこそ折角淹れてやったコーヒーに対する冒涜だ。 余計な事考えずにただ自分の好きなように飲めばいいんだよ。じゃなかったら初めからミルクや砂糖なんざ出すか」 もっともである。 おとなしくいつものように砂糖とミルクをカップに入れる。 「……美味しい」 「当然だ。俺様が特別にブレンドさせた豆だからな。 余計なものが入ってたって美味いコーヒーはうまいんだよ」 満足そうに言って跡部が自分のカップのコーヒーを口にする。 「でも、やっぱり早くブラックコーヒーも飲めるようになりたいです。 なんかオトナって感じがするじゃないですか」 「まあコーヒーに限らず苦味なんてのは経験で覚える味覚だからな。大人、ってのもあながち間違いじゃねえが」 「……じゃあ跡部さんも昔はコーヒー飲めなかったんですか?」 「ブラックコーヒーを飲むガキなんかいねえだろ」 てっきり初めてコーヒーを飲んだ時からブラックを愛飲していたのかと思っていた。 「じゃあ、もう跡部さんは大人になったんですねえ……」 「コーヒーくらいで大人も子供もあるか。 大体、大人たっていい事ばっかりじゃねえだろ」 「そうですか? 私は早く大人になりたいですけど」 やりたいこと、なりたいもの。 大人になればきっと今よりもっと色んなものに手が届くようになる。 そう無邪気に巴は考える。 「大人になっちまうと、今ほど自由には生きられねえぞ。 手につかめるものが増えただけ、手からこぼれるものも増える。そういうもんだろ」 「……よくわかんないです。 で、結局跡部さんは大人なんですか、子供なんですか?」 手のひらから零れ落ちるもの。 広がった視野に移る、目をそむけたいもの。 子供から大人へと一歩進むたびに見えてくる世界は苦い。 それも、コーヒーのように上手く味わうことができるようになるのかもしれないけれど、それは今の跡部にもまだわからない。 けれど巴のたどり着く『大人』の世界は、ひょっとしたら違うのかもしれない。 彼女の飲むコーヒーのように、ほんのり甘く優しいのかもしれない。 巴の質問に否定も肯定もせず、ただ跡部は首をかしげる巴に口の端だけで笑みを浮かべると、カップに残ったコーヒーを飲み干した。 隣でその過程を見届けるのも、悪くはない。 |