その日は、少し寒い一日だった。 日が差していても風が冷たいこんな日は、日が暮れ始めると同時に急激に気温が下がっていく。 汗をかいた身体を冷やさぬように、いつもより早めに練習を終えて帰路につく。 テニスコートから巴の家までの、いつもと変わらない道筋。 高台へと続く階段を昇る途中、巴が後ろを振り返った。 足元には、夕日に染まる階段を切り抜くように影が映る。 振り返った先には、今まさに沈みゆく太陽が見える。 「……」 「どうかしたのか」 声をかけると、まるで今初めて跡部に気が付いたかのようにこちらを向いた。 けれど、こちらを向いていても巴がこんな風に遠い目をしている時には、自分の姿など見えていないことを、跡部は経験から知っている。 彼女の目に映っているのは、今ここにはいない男の姿だ。 そして、いつからか跡部はその夢想を断ち切るように巴に声をかけるようになった。 「秋に、やっぱりこんな風にここで夕日を見たんです。 ……あれ以来、ちゃんと夕日なんて見てなかったな、と思って」 高台から見下ろす夕日は街全体を染め上げるようにして沈んでいく。 冬の夕焼けは儚い。 朱に染まるのは一瞬で、東側の空はもう夜の帳を下ろし始めている。 秋に見た夕日。 一年でもっとも夕日が映える季節。 秋に手塚はアメリカへと旅立った。 そして季節は秋から冬に移り、その冬も、もうすぐ春に変わる。 常に前向きで、全力でテニスに打ち込む巴の事を跡部は気に入っているが、こうしたふとした時に見せる顔は好きじゃない。 いつもの巴とは違う顔。 これは、まるで。 「やめちまえ、あんな奴」 唐突に言った跡部の言葉に、巴が我に返ったかのように目を瞬かせる。 しかし、巴の瞳に映る跡部の表情もまた、意表を突かれたかのような顔をしている。 「な、なんですかいきなり」 「いきなりだな」 「って、なんでそんな他人事風なんですか」 そんなことを言うつもりはなかった。 自分でも気が付かないうちに、口から自然に言葉がこぼれていた。 考えたこともなかった、と言えば嘘になる。 手塚は優秀なテニスプレイヤーであることは自明の理だ。 しかし、それだけだ。 生来シングルスプレイヤーであるくせに巴とダブルスを組み、成長半ばで手を離して遠く手の届かない場所へと行ってしまう。 もう手塚が巴のパートナーになることは、ないのではないのだろうか。 手塚を待つことは、無意味だ。 いや、そんなことは巴だってわかっているだろう。 出国前に手塚に約束したように、青学の柱を支えられる存在になる為に、そしておそらく、異国の地でさらに上を目指す彼に恥じぬよう。 ならば跡部が口を出す必要はない。そのはずだ。 だから、何かを言うつもりはなかった。 それなのに。 珍しく二の句を継げない跡部に、巴は追求をやめて、少しの沈黙の後ぽつりとつぶやいた。 「……どうかしようと思ってどうにかなるのなら、楽なんですけどね」 届かないかもしれないほど離れた場所に向ける想い。 やめてしまえれば楽かもしれない。 この想いを止めてしまえれば。 夕日は、もう西にほんの少しの名残を見せるのみとなっている。 跡部は一歩巴に近づくと、その手首を掴んで引いた。 「帰るぞ。 身体を冷やしたら練習を早めに終らせた意味がねえだろうが」 「あ、はい、すみません!」 慌てて巴が身体を反転させ、再び帰路へと続く階段を昇る。 すぐに手は離れてしまう。 触れるほど近くにいても、届かない想い。 やはり嫌だ。 こんな風に誰かを想う巴の顔を見るのは。 妙に不機嫌そうに黙り込んだ跡部と、物思いにふけりがちな巴は家までの道を黙って歩く。 通り抜ける風はひどく冷たかったけれど、春はもうすぐそこまで近づいている。 春が来れば、また、何かが変わるのかも、知れない。 |