不意に耳に入った、風を切るような音。 これはラケットを振る音だ。 音の方向に向かった巴の目に入ったのは一心不乱に素振りをする跡部の姿だった。 流れる汗から判断するに、既に相当な時間を費やしているものと思われる。 邪魔をするつもりは当然なかったので声をかけるのがためらわれた。 元々用事などないのだから。 「何ぼんやりつっ立ってやがる、巴」 しかし、彼女が姿を現した瞬間から跡部の視界には巴が映っていた。 巴の方には視線も向けずに、素振りを中断する事もなくただ言葉だけを巴に投げかける。 「べ、別にぼんやりしてた訳じゃないですよ! 跡部さんこそこんな時間までなにやってるんですか。 明日が本番なのに体を休めなくていいんですか?」 やがて、跡部がラケットを下ろす。 自分のの言葉を聞き入れたのかと巴は一瞬思ったが、跡部にそのつもりは毛頭ない。 「お前と一緒にするな。 俺様は自分の身体を壊すような無謀な練習はしねえよ」 そう言うと、タオルで軽く汗を拭う。 火照った身体に夜風の冷たさが心地いい。 釈然としない思いで巴はそんな跡部の様子を見ていた。 跡部の言う事は、それは確かにそうなのだろう。 そもそも先日無茶な練習をして倒れかけた巴に言えた台詞ではない。 しかし、それはそうなのだが身体を休めるように、という監督の指示に敢えて逆らってまで素振りをしているというのは少しらしくない。 しばしの沈黙が二人の間に落ちる。 不意に、口を開いたのは跡部の方だった。 「……この合宿中に」 「はい?」 「この合宿中の試合後、お前が俺の評価に反論したことがあっただろう」 合宿三日目の話だ。 そこから巴は人生初のスランプに陥ったのだから、覚えていないはずがない。 しかしその話から跡部が何を導き出したいのかがわからないので、ただ頷く。 「あの時、俺はお前のテニスを及第点だと言った。 俺はそう思った。充分な内容だと。 しかし、……お前は、その内容に到底満足はしていなかった」 まったく同じ試合なのに、二人が下したのは正反対の評価。 巴は複雑な顔を見せた。 その自分の下した評価にがんじがらめになって自滅しかけた身としては、跡部が何をいいたいのか理解できない。 「勘違いするなよ。 お前がその後無理に理想と現状の落差を埋めようとして暴走した事は今は関係ない。 ただ、あの時点でお前は」 確かに俺より上を見ていた。 そう跡部は口にした。 別に巴に対して評価を甘くしていた訳ではない。 現状ここまで成長しているのなら充分及第点だと、そう思った。 だが巴は違う。 現状だとか経験、そんなものは塵ほども寸尺しない。 ただ自分が理想とするテニス、そこまでの遥かな道程だけを見据えてあがいている。 愚かだ。 だが、それが正しい。 現状に妥協していては永遠に理想には到達できない。 そんな事はわかったつもりでいた。 自分もまた、上だけを見ているつもりだった。 しかしそれはただの『つもり』でしかなかった事を、あの時思い知ったのだ。 「……ったく、この俺様に自身を鑑みさせるとは、大したタマだぜ」 「え? 私、何もした覚えないですよ? ただ右往左往してただけで……」 跡部は何か勘違いしていると、慌てて否定する巴に跡部は軽い笑みを見せると夜空を仰いだ。 つられて巴も上を向く。 真円に近い月が明るく輝いている。 『なぜお前がそこまであいつを気にかける?』 以前、手塚に投げかけられた疑問。 あの時は強い選手に興味があるからだ、と答えたが自校の鳥取を例に取るまでもなく巴より強い選手は大勢いる。 だけど、勝敗もなにも視野にいれず、ただ理想だけを追いかける無鉄砲な選手は、多分巴だけだ。 彼女の言うとおり、彼女自身は何もしていない。 でもだからこそ、跡部には巴が特別なのだ。 「月がきれいですねえ……明日はきっと晴れですね! 大会日和です!」 つられて上を向いた巴が、先ほどまでの弁明をすっかりうっちゃってそんな事を言う。 内心苦笑すると跡部はいつもの不遜な表情を浮かべた。 「ああ、俺達が頂点に立つ日には相応しい」 「え、ち、頂点って優勝するって事ですか!?」 さらりと放たれた言葉に動揺して言わずもがなの質問を返す巴に、さも当然といわんばかりの返答が返る。 「当然だ。 まさかお前、この俺様と組んで優勝以外の結果が在り得るとでも思っているんじゃねえだろうな。アーン?」 それに、とさらに言葉を継ぐ。 「お前が目指しているテニスは、まだまだ遠くなんだろう? だったら、選抜大会ごときでブルってんじゃねぇよ」 「……はい!」 その台詞に、巴の表情が引きしまる。 強い瞳。 彼女が目指す先がどんなものなのかは知らない。 だけど、この強さがある限り、きっと自分は彼女の横にいる。 きっと何度でも手を差し伸べる。 柄じゃない。 しかしそれも悪くない。 月明かりの下、跡部は珍しくなんだか優しい表情を見せた。 その意味はわからなかったけれど、それが嬉しくて巴も微笑んだ。 そう、明日はきっと晴れるから。 |