なぜ、こんな事になってしまったのか。
赤月巴は大きくため息をついた。
目の前の河川敷のコートで行われているのは単なるテニス。
端から見ればそう映るだろう。
しかし彼らを知る者が見れば、ネット越しに向かい合う彼らが冷静さにかけていることは簡単に分かってしまう。
伊武深司と神尾アキラ、テクニックとスピードの巧者同士がいま戦っている。
***Reservation completion
「男子って馬鹿よねー、まるっきり冷静さ失っちゃってさあ」
呆れかえった声でそう巴に話しかけてきたのは、彼らと同じ学校の橘杏だった。
ねーっと同意を求めるように巴の顔をのぞき込んで彼女はさらに呆れかえった表情になる。
「なに? もしかして、気にしたりしてるワケ?」
事の始まりは、何気ない巴の一言だった。
『伊武さんと神尾さんって真剣勝負ならどっちが強いんでしょうねえ?』
それがいまこんな状態になっている。
彼らの血走った目を見れば、もういつケガをしてもおかしくない。
かなりの無茶も承知のプレイになっていた。
「そりゃあそうですよー。
まさか『じゃあいまここで勝負してみようぜ!』なんて展開になるとは」
「うーん、私はそうなるかもとは思ったけどね。
なにせ見た感じよりもずっと血の気の多い奴らだし」
そうでなければいまの不動峰男子テニス部は無いのだけれど、巴はそこまでの事情は知らない。
だからこそ、気軽なその場の軽口として言ってしまったのだが彼らにとっては重い一言だった。
男子ならではの闘争心で、その場のトップを決めなければ気が済まなくなったのだ。
全国大会後の現在ではケガも承知で。
「でも、そろそろ何とかしないと、こんな野試合でケガしちゃったら…」
「まあ…ね、幸か不幸か今日はお兄ちゃんが居ないけど、知られると恐いかも」
やれやれ、と言った表情で杏は天を仰ぐ。
それで二人を冷静にさせる良い案が降りてくるとでもいうように。
「あー、どうやって止めても面倒くさそうだなあ」と苦々しく言いながら。
巴も杏を見習って考えてみるが、あまり効果的な方法が思いつかない。
「皆さんは、なにか良い案無いですか?」
巴は後ろで試合を見ていた他の部員達に問いかける。
「いやあ…無理じゃね」
「だよなあ」
それぞれ、無理だという声が上がる。
その答えにまた巴は大きくため息をつく。
「じゃあどうしたら…」
巴は頼りなげな表情を周囲に振りまいた。
その表情に周囲の部員達は困ったように、
「だってよ、なんつーか女子が見てたらなー」
「だよなー。野球ならウィニングボールをお前のために?」
「サッカーならこのシュートをお前のために?」
「この場にいるのが赤月と橘さんじゃなあ、うんうん」
と、巴にはワケの分からないことをごにょごにょとそれぞれ呟いた。
『気になる女子の前での男子の虚栄心』それを知るにはまだ幼すぎた巴は
すっくとベンチから立ち上がり、ラケットバッグを背負ってコートを出て行こうとする。
「ええ!?赤月さん?」
「こんなお二人、見てられないですし、今日のところは帰ります。
ケガなんてしても知らないって、彼らに伝えておいて下さい」
『虚栄心』について痛いほど分かり切っている、不動峰男子テニス部員達は大いに焦ってしまった。
伊武と神尾、この二人が今何故戦うことになってしまったかなんて、答えはたったひとつだ。
ベンチに座っている女子二人に良いところを見せたいだけに決まっている。
それなのに、いたたまれない思いをさせて帰らせてしまうなんて。
彼らは口々に巴を引き留めようとするが、彼女の勢いは止まらない。
杏は彼らの思いなど知ったことではない。
「そうよねー、じゃあ気を付けてねー」などと、のんきに別れを告げていた。
巴は彼らにヒラリと手を振ってコートを出て、土手を上りきってサイクリングロード沿いに自宅方向へとずんずん歩いていった。
「もう、ホントどうしようもないんだから!」
腹立ち紛れに思わずそんな独り言を口走ってしまった。
なにも、巴だって彼らの気持ちがわからないわけではなかったのだけれど、男子よりもシビアな面のある女子としては、スポーツドクターの父を見て育った巴としては、あんな感情的な試合をしてケガをすることほどバカバカしいことは無いとも思う。
実際、ミクスドの選手として男子に囲まれて生活していれば、例えば桃城と海堂の二人の勝負のようにあれくらいの場面はよく見かけるけれどもそれでも解せない。
よくいろんな無茶をして、猪突猛進とかブレーキの壊れたダンプカー的な表現をされることもある自分だが、やはりスポーツ選手としての体の大事さは忘れない。
そして、そんな大事なことを自分の好きな人には忘れて欲しくはなかった。
といっても、まだその気持ちを本人に伝えていない以上、巴が伊武にとって何者でも無い以上、巴が伊武の行動についてあれこれ口出しする権利はない。
実のところ巴が腹を立てる一番の理由は、彼の身体の心配でもなく「それ」かもしれない。
二人の関係にいまのところ何もない以上は何があっても立ち入ることは躊躇われるのだ。
純粋な友情を培っていれば、立ち入ることが許される領域かもしれないけれども、今更そんな関係になることも難しい。
気付いたらもうどうしようもなく彼を意識している自分がいるかぎりは。
「あ〜あ、ばからし……」
口から本音がこぼれ落ちる。
勝手に心配するのも自分、勝手に好きになるのも自分。
結局のところ一番感情に走って馬鹿をやっているのは自分かもしれないと痛切に思う。
いらだたしい思いと共に足を踏み出そうとしたところ、
━━━がしっ。
ふいに、背負ったラケットバッグに負荷がかかる。
巴は後ろから急に身体を止められたせいで、仰向けに転びそうになるところを必死に足を突っ張ってとどまり、首だけを後ろにひねって何事かと確認する。
「伊武さんじゃないですか」
巴のラケットバッグを引っ張って巴の足を止めているのは、先ほどまでコートの中にいた伊武だった。
急いで追ってきたのか、少々呼吸が乱れている。
いつも冷静でポーカーフェイスな彼にしては珍しい、巴がそう考えていると当の伊武が口を開いた。
「……ねえ、何で帰るのかな」
「だって、そりゃあ……あの……」
自分の発言で何だか怪しい雲行きになって、感情むき出しのテニスなんか始めちゃって。
こんなに心配している自分を無視して。
っていうか、こんなに伊武のことが気になって仕方ない自分が馬鹿みたいで。
そんなこと、当然面と向かって本人に言えるわけもなく、ごにょごにょと口ごもる。
「あー、こんな馬鹿らしいことに付き合っていられなくなったワケ、ね…………そりゃそうだよね君の一言で年上の男二人が頭に血を上らせて必死になっちゃってさどっちが強いか聞かれたら本当は俺の方が強いに決まってるけどそれにしたってやっぱりその場で君に見せた方がわかりやすいかなって思ったワケなんだけど君はそこまで求めてないよねそうだよね本当に興味があったわけじゃなくって話の流れ上そんなことを口にしなきゃいけなかっただけだよね……」
「あ、あのー伊武さん?」
伊武のお決まりのボヤキが炸裂する。
そうなると話が長くなるのは短い付き合いながら分かり切っている。
しかしながら、巴にそれを止めるスキルはいまのところ無い。
上手く中断できるのは橘ぐらいのものだろう。
巴が「あのー」と声を掛けても、まだボヤキは続いていた。
「……っていうかさ今日君がこのコートに来ることになったのは別に俺達の優劣を知るためとかじゃないって事覚えてるのかなー覚えてないんだろうなーあっもしかして迷惑とかウザったいとか思ってたんだーだから帰ろうとしたんだろうなーせっかく一緒に練習したあとでみんなでレストランに行って誕生日パーティーしようって言ってたのになー……」
「あっ」
確かに忘れていた。
今日は巴の誕生日だから不動峰のメンバーと一緒にお祝いしようと言っていたことは。
「やっぱり……ね」
いつの間にかボヤキを止めていた伊武は「ウケる」と言いながら、巴の顔が恥ずかしさで赤らんでいくのを眺めていた。
どうやら巴自身がむしろ伊武達よりも感情的になっていたようだ。
「まあいいか━━━じゃあ、行こうか」
「はい? どこへ?」
「どこへ?って、レストランかどっか。
……まあ俺のサイフじゃ高いところは無理だけど。中学生だし」
いつの間にか自分の荷物を持って追いかけてきていた伊武は巴の疑問に答えつつ彼女の隣に立つ。
「って言うか、他のみんなはどうするんですか?
あとで一緒に追いかけてくるんでしょうか」
確か当初の約束は「みんなで」。
伊武と二人で、では無かったはずだと巴は混乱する。
誕生日だったら、やっぱり特別な感情を抱く相手と過ごしたい。
もちろんそれはそれで嬉しかったりするわけだけれども、それとこれとは別の話だ。
「━━━俺とじゃ、嫌?」
珍しく巴と目を合わせてハッキリと伊武は尋ねた。ボヤキもない。
巴の心臓がいつにもなく激しく跳ね上がる。
嫌な筈は、ない。
今の言葉を取り消しだと、嘘だと言われないうちにブンブンと大きく首を振った。
「い、いえ。そんなワケ……っていうか、困るっていうか。
はじめっからそう言ってくれないと心の準備が……!」
巴は自分自身ワケの分からないことを叫び声に近い感じで口走る。
言葉通り本当に心の準備が出来てないのだった。
「ふぅん」と巴の慌てるその様子を一通り眺めてから伊武は口を開いた。
「じゃ、来年は今から心の準備をしておくと良いよ」
「はい?」
伊武の言ってる意味を推し量りかねて、巴はその言葉をもう一度待った。
もしかしたら、自分の都合の良いように意味を取っているだけかもしれないのだから。
伊武の真意とは違うところにあるのかもしれないのだから。
「━━━鈍い振りして二度と言わせんなよ」
ぼそっと、常日頃よりも増してぼそぼそと言葉を続ける。
「ほら、予約完了だからね━━━来年の予定について心の準備した方がいいと思うよ」
それを聞いた巴の表情はぱぁっと輝いた。
「はい!一年かけて調整しておきます!」
「……まずは今日の事を考えるべきだと思うけどね……まあいいか」
とりあえず土手の上で止まっていた二人の足はまた街へと向かって動き出した。
これまでも二人にとってずっと自然だったかのように、伊武は巴の歩調に合わせてゆっくり歩きだす。
行き先についてはまだ決まっていないけれども、不思議と歩調は乱れることはなかった。
「で、どこに行くわけ?いい加減決めてくれないかなぁ」
「今日、私に思いっきり心配させた罰です。
思いっきり高いお店でご馳走してもらいますから安心してくださいね。
男気ならこういうところで見せてもらった方が女子としては嬉しいですよ」
「……帰っても良いかなあ……」
「その代わり、来年の予約分に回しますけど、それでも良いなら」
「…………すんまそん」
END
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